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「名言との対話」6月14日。松平定信「いや、こういう時こそ、人心を一新する絶好の機会だ。不幸をかえって幸いとすべきだ」

松平 定信(まつだいら さだのぶ、宝暦8年12月27日1759年1月25日〉- 文政12年5月13日1829年6月14日〉)は、江戸時代中期の大名老中

8代将軍徳川吉宗の孫。父は三卿の田安宗武儒者大塚孝綽に師事して幼時より学問に励み、わずか12歳で『自教鑑』という修身書を著すなど俊才の誉れが高かった。

1774年奥州白河藩主松平定邦の養子となり、1783年に家督を継いで白河11万石の藩主となった。天明の大飢饉に際会し上方より食糧を緊急輸送して領内の窮民を救済する。藩の財政支出の抑制と風俗の改良のため、徹底した倹約を断行し、白河藩政の建直しに努め実績をあげた。

1787年、定信は老中首座に抜擢された。田沼意次失脚後の幕政を担当し、6年間にわたる「寛政の改革」を主導した。この改革は祖父である吉宗の「享保の改革」が手本であった。「予を殺そうとも、妻子を殺そうとも、天下の災を止めたまえ」という決意であった。

田沼の金とコネのよる賄賂政治を厳しく批判し、財政緊縮、綱紀の粛正、農村復興、出版・思想の統制などの改革政策を断行した。ロシア船の来航を機に海防にも力を尽くした。

寛政の改革は、財政の建直しや民生の安定に一定の成果を収めた。漂流しロシアの地を踏んだ大黒屋光太夫が9年半ぶりに日本に帰ったとき、松平定信桂川甫州に聞き取りをさせ、『北槎聞略』という地誌を完成させ、蘭学発展に寄与している。光太夫は一時金30両を与えられ、月3両の手当をもらい、千代田区番町に住み78歳まで生きている。

米沢藩中興の祖・上杉鷹山は今日の行政改革にもたびたび登場するが、当時の老中であった松平定信は鷹山を高く評価し「百諸侯第一の賢君」と讃えている。また頼山陽は「日本外史」を書き、定信に献上している。

2008年に野田一夫先生と富田さんと白河高原カントリークラブでゴルフを楽しんだとき、松平定信が愛した温泉の湯という触れ込みのお風呂に入ったことがある。

2021年に多摩川沿いの万葉歌碑を母と訪ねた。「多摩川に晒す手づくりさらさらに何ぞこの子のここだ愛しき」という歌が彫ってあった。刻まれた文字は松平定信の筆だ。また裏面の陰記は渋沢栄一の撰文と書である。文化文政時代は、行楽が盛んで、多くの文人墨客が多摩川を訪れていた。多摩川の美しさに魅せられていた平井有三(元土浦藩士)が、名勝づくりを発起し松平定信に依頼し、文化2年(1805年)この歌を石に刻みつけ、多摩川堤防の町側に土手を築いて建てたのである。

松平定信は将軍家斉らとの対立、そして「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」と揶揄されるなど緊縮政治による人心の離反もあり、1793年に老中および将軍補佐役を免じられ、白河藩政に専念する。藩校の立教館の充実、庶民の教育の郷校などを建設。居合、砲術、弓術なども自身が改良している。文化活動も奨励した。1812年家督を譲り隠居。

著作は自叙伝『宇下人言』、これは「定信」を分解したタイトルで面白い趣向だ。他に『国本論』、『花月草紙』、和歌集『三草集』、『集古十種』などがある。定信には白河楽翁などの別名がある。文武両道に長けたこの人物は、危機にあった幕閣での大仕事に立ち向かい、自藩においても文武を奨励した。辞世は「今更に何かうらみむうきことも楽しきことも見はてつる身は」である。自らも風流を楽しんだ松平定信らしい辞世だ。

若き日に白河藩主となった夏の浅間山の噴火による降灰、利根川の洪水、冷夏などによる、凶作で餓死者があふれた状況で、家臣が悪い時期に家督を相続されましたなと言ったときに、定信はかぶりをふって冒頭の言葉を吐いた。そして率先垂範して質素倹約につとめ、また人口増加策などを実施し大きな成果をあげている。環境、状況が悪いときこそは、改革のチャンスなのだ。

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