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「名言との対話」10月30日。上田耕一郎「ひそかに疑問を抱いたり批判をして逃げるのではなく、人間の自由のためにたたかうべきだったのだ」

上田 耕一郎(うえだ こういちろう、1927年(昭和2年)3月9日 - 2008年(平成20年)10月30日)は、日本の政治家。

参議院議員として6期、24年、47歳から71歳までを全うした。400回の質問、質問主意書は42通という仕事ぶりだった。日本共産党では、「赤旗」編集長、党宣伝局長、政策委員長、副委員長などを歴任した。

日本共産党の議長をつとめた不破哲三(本名・上田建二郎)は実弟。1930年生まれの3つ違いの兄弟である。兄は耕一郎、弟は健二郎。耕は農民、建は建築労働者。当時の父は自由教育の「雲雀が丘小学校」の校長であり、労農同盟のつもりで命名したそうだ。二人とも日本共産党を率いる大物になったから父親も本望だろう。当初は耕一郎は「雲輔」(クモスケ)が候補だったそうだ。そうなっていたら日本の政治も変わっていたかもl知れない。やはり、名前は重要だ。

演説などで、独特の節回しがあり「上田節」として親しまれた。 緻密かつ鋭い舌鋒で、歴代総理・大臣を追い詰めた論客としてのイメージが私にはある。

『国会議員』(平凡社新書)を読んだ。どこまでもまともな書きぶりだった。

人間が動かす国家権力の仕組みと動きに直に触れる。人間の生活、運命、生命を左右する国民支配のメカニズムは、人間がつくり、運営しているのだから、変えることができる。(変えていこうという強い意志が必要だ)

野党の武器は国会論戦で勝って世論の支持を受けることだから、徹底した調査と理論構築が重要だ。質問の最後は、「あれか、これか」「イエスか、ノーか」という言い方にする。二の矢、三の矢を用意しておく。(仕事の進め方に参考になる)

予算員会では衆議院は往復方式で、質問と答弁双方の時間の合計が質問時間。参議院では質問者の時間のみ計算する片道方式。参議院ではそんな答弁では質問できないと座っていても時間は減らない。(こういう決まりを初めて知った)

「一ヵ二分の一政党制」と言われた55年体制の内幕も興味深い。社会党の村山富市理事(後の首相)の動きなどが暴露されている。企業・団体献金と国民一人250円の政党助成金はもらわない「野党らしい野党」としての共産党の存在義はきわめて大きいと嘆息している。(カネまみれの国対政治の実態を知った)

首都移転に関する衆院特別委員会での寺島実郎三井物産ワシントン事務所長の「最低でも100兆円プラン」、中曽根首相「あなたは楽しそうに質問しますね」、そして村上正邦参院自民党幹事長との戦友としてやりとりなどのエピソードもある。(人間的なやりとり)

日本の国会議員の数は欧州比較で少なく、かつ人口あたりの議員数は極端に少ないと言っている。この数字は本当だろうか。人によって違うから自分で調べてみたい。

上田耕一郎は総じて国会議員という仕事は「まことにきびしいポストだと思う。それだけにやりがいもあるポストでもある」と述懐している。こういう気持ちで政治にあたってもらいたいものだ。

上田耕一郎の小学校時代の同級生の中で3人が特攻隊員だったこと、そして日本にも毅然として戦った人々と政党があったことを知り、1946年に日本共産党に入党する。「ひそかに疑問を抱いたり批判をして逃げるのではなく、人間の自由のためにたたかうべきだったのだ」との若い時からの固い志を胸に、四半世紀にわたる国会議員生活を誠実に全うしたことに頭がさがる思いがする。

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