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「名言との対話」10月11日。渡辺崋山「大功は緩にあり 機会は急にあり」

渡辺 崋山(わたなべ かざん、寛政5年9月16日1793年10月20日) - 天保12年10月11日1841年11月23日))は、江戸時代後期の武士画家

三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩士であり、のち家老となった。モリソン号事件で幕府を批判した「慎機論」で蟄居を命ぜられ、後に自刃。

崋山は、1万5千石という小藩の家老として飢饉を予測した施政などで大きな成功をおさめている。また世界の情勢に通じるために蘭学者たちとの交流も深かった。そしてライフワークであった絵画では当代一流で数々の名画を遺している。肖像画は特に優れていた。藩士としての重責を担いながら、学者や画家としても活躍した渡辺崋山は、”マルチサラリーマン”のかがみといえる。ただ彼も、才能を開花させたのは人生の後半だ。
2時間単位のムダのない生活スケジュールは、今でも参考になる。行動が制約されていた時代、メモやスケッチを多用して効率化を図るなど、時間の使い方にたけていた。睡眠時間は3時間、不眠説もあるぐらいで、まさに刻苦勉励型の努力家だった。

午前4時起床。前日の復習など勉学に励む。午前6時〜子どもへ手習いを教授する。午前8時〜学問を講義する。午前10時〜絵を描く。正午〜登城し、藩士としての仕事に励む。午後2時〜引き続き、藩務に励む。午後4時〜模写をする。午後6時〜詩や文章などの勉強をする。崋山は1日を2時間単位で考え、スケジュールを立てていた。睡眠時間は3時間程度。

崋山には名言が多い。「眼前の繰廻しに百年の計を忘るるなかれ。」「西洋が恐ろしいのは、雷をきいても耳をふさぐことを第一の悪と考えることです。」「一人にても餓死流房に及び候わば、人君の大罪にて候」

渡辺崋山については、いくつか縁があった。その都度、人物像に焦点が絞られてきて、しだいに鮮やかになっていった。こういう理解の仕方が、人物論の楽しみだ。以下、記す。

2005年。愛知県田原市で講演をした後、田原市博物館渡辺崋山記念館)を訪ねた。2歳のときに備前池田候の行列から辱められた崋山少年は殿様と対等に話せる人物になろうと学問の世界で身を立てることを決意する。崋山は藩士として有能で後に家老職にのぼる。暮らしを支えた内職の絵の才能も素晴らしく、画家としても大成する。絵は谷文晁に学んだ。そして蛮社の獄の原因となった「慎機論」の著述で知られるように当代きっての蘭学者でもあった。藩士・画家・学者という3つの顔を持つ崋山は、刻苦勉励型の努力家だった。「日省課目」という一日のスケジュール表をつくっている。それによれば、朝は午前4時に起き、前日の復習、学問、6時には子どもへの教授、8時には講義、10時には絵を描く。正午は登城し藩士としての仕事、2時からも同じ、4時には模写。午後6時からは詩、文章など。2時間を単位として生活のスケジュールをつくっている。睡眠時間は3時間というスケジュールだった。いつの時代もマルチに人生を生きようとすると時間の捻出と効率的な仕事のやり方が大切ということだろうと、崋山の人柄に共感を覚える。崋山はスケッチやメモをとるという方法を用いていた。崋山の優れた観察眼の秘密はこのスケッチやメモにある。

「商人八訓」には、「先ず朝は召使より早く起きよ」「十両の客より百文の客を大切にせよ」「買い手が気に入らず返しに来たらば売る時より丁寧にせよ」「繁昌するに従って益々倹約をせよ」など、商売のコツをしっている観察に優れた崋山の姿が浮かぶ。大坂商人との外交にあたっての「八忽の訓」も面白い。「眼前の躁廻しに百年の計を忘るる勿れ」「前面の功を期して後面の費を忘する勿れ」

40歳で家老になった崋山は、農業や海苔の生産などに励む。報民倉という米の備蓄のための倉庫をつくり、その米を後の天保の大飢饉の時に放出し、餓死者がなく幕府から表彰もされている。紀州藩破船流木掠取事件、幕命の新田干拓計画助郷免除なども解決している。崋山の蘭学を通じて外国事情に明るかった田原藩は軍備の近代化にも成功していた。絵画には遠見番所という灯台も設置した。

崋山は難破した漁民を届けようとしたモリソン号を幕府が打ち払った事件を「慎機論」で批判したという罪で、「戊じゅつ夢物語」を書いた友人の高野長英(1804年生まれだから崋山より11歳年少)らとともに捕らえられる。この蛮社の獄は、無人渡航計画のうわさから出たもので10数名が捕らえられた。長英は永牢、崋山は蟄居を申しつけられる。「慎機論」では五大州のうちアメリカ・アフリカ・オーストラリアはヨーロッパの植民地となり、アジアでも独立国はペルシャ・中国・日本のみであり、その中でも西洋人と貿易などをしていないのは日本のみであると書いている。

働き者の崋山は、蟄居の間も農業とともに絵にも力を入れる。千山万水図、月下鳴機図、虫魚帳などの名作もこの間に描いたものだ。ところがこれが「罪人身を慎まず」と悪評になり、死を決意する。「自決脇差」がちょうど展示してあった。墓には「不忠不孝 渡辺登」と書く。君主への不忠、親に先立つ不孝をしたとの意である。崋山は登(のぼり)という名をもたっていた。

画家としての崋山は、線を主体とした東洋画に、立体・質感・遠近などの西洋画の手法を取り入れている。一掃百態図などは庶民の生活を描いた動きのある名画である。両国橋図稿など動きのある風俗描写も素晴らしい。また、人物画に優れ多く描いている。写生の中に、人物の性格も表現した。崋山と椿山(弟子)の人物画の企画展も開催されていた。鷹見泉石、佐藤一斎、林大学頭述斎、崋山像(椿山画)、ナポレオンなど多くの優れた人物画をみる。崋山の先生でもある佐藤一斎の絵を興味深く見た。崋山は19歳の時に学んでいる「年を重ね穏やかになった一斎」と解説がある。一斎夫妻像は夫80歳、妻73歳のときの全身像である。刀、扇子、脇差、烏帽子なども細かく描かれてある。一斎は有名な儒学者で、名言が多く、西郷隆盛なども一斎に大きな影響を受けている・「少にして学べば壮にして為すことあり 壮にして学べば老いて衰えず 老いて学べばすなわち死して朽ちず」という私が一番好きな言葉は、この一斎の言葉だ。一斎は1772年生まれで88歳の長寿を全うしている。美濃岩村藩の出身で34歳の時に幕府の昌平坂学問所塾長になっている大儒である。

田原藩上屋敷は、皇居に面した今の最高裁判所の辺りにあった。そこで崋山は江戸家老として過ごしている。蟄居していた家が崋山を記念した公園の中にある。崋山の像が立っていた。

2007年にドナルド・キーン渡辺崋山』(新潮社)を読んだ。興味深い記述に満ちている。角地幸男という人が訳者として出ているから、キーン先生は英語で書いたのだろう。一流の画家、トップクラスの蘭学者、老練な家老としての政治業績、時間を惜しみ勉励する気力などマルチ人間・渡辺崋山の生涯は魅力に満ちている。

2008年。京都で藤原勝紀先生の主催するラウンドテーブルで、「偉大な人物像の世界に想いを馳せて」というタイトルで発表したとき、教養論の碩学竹内洋先生次のような好意的なコメントをいただいたことがある。「偉人伝。渡辺崋山の絵本。人物伝を学ばなくなったのは不幸だ。マルキシズムの悪影響は社会科学を法則科学にしたこと。人間のない歴史。人物で時代を語る。大宅壮一の人物評論。九鬼隆一の評伝の書評。二流人物評伝。異人伝。前尾繁三郎、学問の下流化」。翌年の2009年にはと野田一夫先生の事務所で歓談し、3人で食事をした。

2011年。下北沢の本多劇場の「滝沢家の内乱」の千秋楽をみた。瀧澤馬琴を描いたこの芝居の中で、渡辺崋山の名前が何回もでてきた。息子の宗伯の友人であり、また馬琴とも友情がある。崋山は優れた画家であると同時に、優れた人物であることがよくわかる内容になっていた。

崋山が自刃して1年後には、幕府は打ち払い令を緩め、10年後にはいくつかの国と国交を持ち、そして27年後に明治維新となるから、時代を先駆けた人物だったということだろう。

小藩をひとりで切り盛りした辣腕の家老・当代きっての蘭学者・後世に名を残す優れた絵描き。江戸のマルチ人間の渡辺崋山には多彩な名言が数多くある。その中でも冒頭に掲げた「大功と機会」に関する言葉は素晴らしい。ゆっくりとじっくりと時間をかけなければ大きな功績は成就しない。時代の急変はピンチではなくチャンスがある。平穏な時期にはじっくりと仕事をしよう。そして風雲急な時代に成ったら絶好の機会でり思い切って行動しよう。

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