名言との対話」5月9日。石井絹治郎「薬は大衆のために」
石井 絹治郎(いしい きぬじろう、明治21年(1888年)2月14日 - 昭和18年(1943年)5月9日)は、化学者・薬剤師・実業家。大正製薬の創業者・初代社長。享年55。
香川県三豊市出身。子ども時代の夢は「大臣か代議士」だった。13歳で上京し、1904年に神田薬学校(後の明治薬科大学)に入学し首席で卒業。18歳で薬剤師国家試験に合格。1908年、泰山堂薬局を開設。1910年に結婚。
1912年、大正製薬所を設立。「売薬調剤権を薬剤師に限る」という売薬法改正運動に参加し成立させ、薬剤師の地位の向上に貢献した。
1916年、19歳の上原正吉を住み込みで採用。関東大震災で、大阪支店からの迅速かつ果敢な処置で、薬剤師会の会員に無料配布を行った。羅災を免れた大正製薬所は大きな利益をあげた。1928年、大正製薬株式会社に改組。32歳の上原正吉を大阪支店長に抜擢した。
石井は順調に発展した本業以外にも、多くの公職を引きうけている。また製薬以外の事業にも多く関係している。大日本化学工業会会長。日本微生物研究所を設立。東京府国防科学協会会長。日本鉱業開発社長。日生工業社長。興亜炭素社長。石井精機社長。
1940年には「皇道文化研究所」の設立に関与した。大東亜共栄圏建設の基礎である日本的世界観の樹立が目的だった。日本的であり、かつ世界に通ずる世界観を築こうとした。1943年に腸チフスで死去。
大正製薬は、住み込み社員だった3代目社長の上原正吉の時代に大発展する。今でも、「早めのパブロン」、「ファイト!一発!リポビタンD」などのヒット商品で身近な会社だ。
その上原正吉は「部下に対する肝要と愛情、積極、進取の気象、度胸と勇断を学んだ」と述べている。
葬儀委員長をつとめた藤山愛一郎は「石井さんが戦後まで生きておられたら、戦後混乱期の日本の先導役として戦後経済復興のために大きな貢献をされたであろう」と惜しんでいる。
石井絹治郎は31歳のときに腸チフスで九死に一生を得ている。そのことで自信を持ち、予防接種をしないで東京商工会議所満鮮北支経済使節団長として活動し、帰国後に発病したのである。
人物を研究していると、戦争で亡くなった人物が生きていたらと思うことがよくある。多くの有為な人物が活躍の機会を与えらえなかったのだ。そして、この石井絹治郎の場合も、非常に活動的で健康な人であったが故に、自信過剰になって予防接種を怠ったことで命を落としているのは残念な気がする。天寿を全うできる社会こそ、理想だ。
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