「名言との対話」3月1日。中村是公「お前もよっぽど馬鹿だなあ」
中村 是公(なかむら よしこと、通称: なかむら ぜこう、なかむら これきみ[1]、1867年12月20日(慶応3年11月25日) - 1927年(昭和2年)3月1日)は、日本の官僚・実業家・政治家。南満洲鉄道株式会社(満鉄)総裁、鉄道院総裁、東京市長、貴族院議員などを歴任した。
広島市出身。一高、東京帝大法科卒。一高時代に夏目漱石と親しくなった。台湾総督府に勤務し、民生長官であった後藤新平の知遇を得る。総務局長兼財政局長に抜擢される。この出会いは是公の将来を決定的にした。
台湾を9年で黒字の植民地に変えた後藤新平は、半官半民の国策会社・南満州鉄道(満鉄)の総裁に就任する。後藤は「御前8時の男でやろう」と考え、若い是公を副総裁に抜擢し、官庁、企業から30代の俊才を集めた。後藤は2年の後、逓信大臣になり内地に戻る。中村是公は満鉄の第2代総裁に就任し、後藤のアウトラインに沿って満鉄の基礎をつくった。満鉄の隆盛は「是公の敏腕によって作りだされたものであった」と菊池寛が述べている。
1913年に原敬内務大臣の干渉があり、総裁、副総裁らは満鉄を去る。
1917年に後藤内務大臣兼鉄道院総裁のひきで貴族院議員に勅選される。その後、是公は鉄道院副総裁に就任。1923年の関東大震災では、またしても後藤の推薦で東京市長となり、東京の復興に取り組んでいる。1926年に辞職。1927年に死去。享年60。
中村是公の生涯を追うと、常に「大ぶろしき」の後藤新平の存在がある。後藤のぶち上げた大構想を、地味ではあるが手堅くものにしていく役割だったのだ。
満鉄総裁時代に中村是公は渋谷に敷地3000坪の大邸宅を構えた。この邸宅は「羽沢ガーデン」と呼ばれ、各種の行事で親しまれた。私の師匠である野田一夫先生の三男の豊さんがここをレストランにして成功した。2005年頃に私も何度かこの重厚な満鉄総裁が過ごした部屋で野田先生と食事を摂った。その頃は「人物記念館の旅」を始めたころで、歴史や人物については無知だったが、今から思えば、この満鉄総裁が中村是公だったのである。豊さんは京都でもガーデンオリエンタルというレストランで話題になっている。竹内栖鳳(第一回の文化勲章を横山大観と同時に受章した画家)の自宅をレストランとしたもので、いまや関西ではもっとも行きたい店のランキングで一位と日経新聞が報じていた。昔の広い日本家屋の雰囲気の中でテーブルと椅子で洋食を楽しむのは実に素敵である。庭に点在する別棟や離れなどもこのレストランの一部となっていて、結婚式場の披露宴場として人気が高い。2007年には京都大学の藤原勝紀先生(九大探検部の先輩)夫妻を招いて食事を堪能したことがある。
さて、この中村是公が「お前もよっぽど馬鹿だなあ」と言った相手は、夏目漱石だったのである。是公と漱石は大学予備門時代に一緒に住んでいた親友だった。是公がボート競技で優勝した賞金で漱石に『ハムレット』をプレゼントしている。是公は後に満鉄総裁時代に漱石を満州に招いている。
漱石は大阪朝日新聞の連載「永日小品」で是公のことを書いている。副題は「変化」である。「昔の中村は満鉄の総裁になった。昔の自分は小説家になった。満鉄の総裁とはどんな事をするものかまるで知らない。中村も自分の小説を未(いま)だかって一頁も読んだ事はなかろう」と書いている。
豪放磊落な是公は「べらんめえ総裁」「フロックコートを着た猪」「独眼竜」などの異名を奉られている。後藤新平も部下たちが酒を飲みながら「うちの大将は」と話題にしたが、是公もそうだったのではないか。人間味を感じる綽名である。
漱石は生涯でふたりの親友を持った。一人は帝大で知り合った正岡子規であり、もう一人が中村是公であった。是公と漱石は、最後まで「俺、お前」の仲だったのだ。
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