「名言との対話」12月3日。河上丈太郎「委員長は私にとって十字架であります」
「名言との対話」12月3日。河上丈太郎「委員長は私にとって十字架であります」
河上 丈太郎(かわかみ じょうたろう、1889年1月3日 - 1965年12月3日)は、日本の政治家。右派社会党委員長、日本社会党委員長を歴任した。
政治家。東京大学を卒業、弁護士と教職をしながら無産運動に参加。 1928年、初の普通選挙で衆議院議員に当選。第2次世界大戦後公職追放となったが、解除後の 52年右派社会党委員長となる。浅沼委員長暗殺のあと、61年から 65年まで日本社会党委員長をつとめた。人格高潔,キリスト教信仰に基づく人道的社会主義者だった。以上はブリタニカ国際大百科事典の解説だ。
息子の河上民雄(元衆議院議員・元日本社会党国際局長)へのインタビューが人間・河上丈太郎の真実を伝えている。その説明に従って河上の生涯を追ってみる。
5歳の時から、父に連れられて霊南坂の祈禱会に通って敬虔なクリスチャンになった。 立教中学時代に『万朝報』を愛読し、社会主義思想に接近する。第一高等学校では弁論部に所属し、大胆にも徳富蘆花に大逆事件の批判に意味がある「謀叛論」というテーマで講演をしてもらった。
河上は「自分は生涯サーベルをつける仕事にはつかない」という誓いをたてており、大学卒業時に用意された朝鮮総督府の文官ポストを辞退し、立教大の講師となる。関西学院教授時代に政治の道に進むことを前提に東京帝大法学部に学士入学し弁護士の資格をとった。1928年の第1回普通選挙に日本労農党公認で出馬して当選した。大工であった父は「保守党は買収と戸別訪問で票を集めているが、息子は演説だけで票を集めているのは偉い」と日記に書いている。後年父は「立派な政治家になって、神と人のために尽くしてくれ」と遺言して逝去している。以後一度落選や戦時中に大政翼賛会総務であったことから、公職追放を受けた時代を除き、生涯にわたって衆議院議員であった。
『老子』の「無為にして化す」が座右の銘であった。「何も策を講じなくても存在するだけで自然に人を感化する」という意味に受けとっていた。
公職追放後の1952年の右派社会党委員長に就任したときのあいさつが、「十字架委員長」として話題になった。ーー「先人はわれわれに教えて曰く「屍を越えて突撃せよ」と。この苦難の道を避くることを私の良心が許しません。委員長は私にとって十字架であります。しかしながら十字架を負うて死に至るまでの闘うべきことを私は決意したのであります」。 聖書の「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」という一節(例えばマタイ16章)に由来している発言だ。それをきっかけに週に一度早朝に国会内で祈禱会を始め、クリスチャンの議員が参加している。
一高以来の友人であった自民党の賀屋興宣は「理想、信念、信仰、正義、熱情、純情、善意」等の言葉で追悼しており、河上の人がらを要約しているのだが、やはり河上丈太郎の生涯は「十字架委員長」という言葉で集約される気がする。「日本国民は、原爆を浴びた最初の国だ。だからこそ、神のみこころである平和運動の先頭に立つのも日本国民だ。この世界平和を達成するために、私は私の全生涯を捧げる」。河上の十字架は平和運動を通じた世界平和であろう。
河上が社会党委員長の時代は私は中学生だったから、名前は知っていたが、今回改めて事跡を追った。聖書と漢籍が愛読書であり、キリスト教を土台に東洋哲学が加味されて河上丈太郎という人格者ができあがったことがわかった。「和漢洋」の教養にあふれた哲人が活躍していた時代だったという感慨をもった。
河上丈太郎は委員長在職中の1965年1月に、くも膜下出血で倒れて死に至る。決意通り十字架を負うて死に至るまで闘った人である。合掌。
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