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「名言との対話」 3月25日。川島芳子「私は男がきらいです。男はただ女を困らすばかりですから」

川島 芳子(かわしま よしこ、1907年5月24日 - 1948年3月25日)は、清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女。

8歳のとき、粛親王の顧問だった大陸浪人で満蒙独立の総帥であった川島浪速の養女となり日本で教育を受けた。20歳で蒙古族のカンジュルジャブと結婚。3年ほどで離婚した。 その後、芳子は上海へ渡り同地の駐在武官だった田中隆吉と交際して日本軍の工作員として諜報活動に従事し、第一次上海事変を勃発させたといわれている。戦後間もなく中華民国政府によって漢奸として逮捕され、戸籍に養女としての登録がされていなく日本人であることが証明できずに銃殺された。享年33。日中双方での根強い人気を反映してその後も生存説が流布された。

2008-12-06のテレビで、午後9時から11時過ぎまで、「男装の麗人--川島芳子の生涯--清朝王女から美貌の女スパイへ!男女二つの顔で激動の日中戦乱をいきた華麗なる42年!!悲劇の皇女処刑60年衝撃の実話」をみて私も興味を持った。日本人と中国人の狭間で生きた「男装の麗人」の波乱の生涯を描いた作品だ。中国人としてのアイデンティティに従いながら、最後は日本に協力したとして中国から処刑されるという悲運の人だ。

上坂冬子の労作『男装の麗人 川島芳子伝』(文春文庫)を読んだ。上坂冬子は、戦争に翻弄され、国と国との谷間に落ちた人々に強い関心を抱き、ノンフィクションを書いている作家だ。戦争とかかわって運命を狂わせた女性についての著作が多い。

川島芳子は「東洋のジャンヌ・ダルク」」と英雄視されたこともあったのだが、世界で最も有名な女スパイとして、女スパイの代名詞的存在となったオランダのマタハリになぞらえて「東洋のマタハリ」とも呼ばれた。

川島芳子については「絶世の美貌。貴種の血。才気と頭脳。天才。おれ、などの男言葉。軍国少女たちのあこがれ。」という賛辞がある一方で、「理想はない。独走の繰り返し。虚言癖。自己顕示欲。男性遍歴。可哀そうな女性。」という見方もある。

芳子自身の詩をいくつか掲げる。

信州の松本高女時代「長い睫毛が林なら 潤んだ瞳は泉です 泉からころころと ころげる雫が涙なら 涙の主は誰でせう」

「行く末は日本も志那もこの通りなら 何で討ったり討たれるぞ 平和の光大陸に 日本も志那も同胞ぞ」戸いう詩と傍らに2つの骸骨が並んでいる資料がある。それが川島芳子の志だった。東海林太郎が歌った「キャラバンの鈴」の作詞は川島芳子だ。

「たてもの野外博物館松本市歴史の里」の展示棟に川島芳子記念室がある。没後50周年に、芳子が少女時代を過ごした長野県松本市の日本司法博物館内に、川島芳子の書や遺品などを展示した資料室「川島芳子記念室」が開設され、芳子の女学生時代の友人や関係者が芳子のゆかりの品などを寄贈した。記念室は毎年川島芳子が銃殺された3月25日頃の週末に「川島芳子を偲ぶ会」を開催し、長野県内外から多数の人が集っている。

日本人であったが中国人として生きた李香蘭、中国人であったが日本人として活躍した川島淑子。どちらも日中15年戦争のはざまで運命に翻弄された女性である。 川島芳子の辞世の句は「家あれども 帰り得ず 涙あれども 語り得ず 法あれども 正しきを得ず 冤あれども 誰にか訴えん」。獄中で語ったといわれる「私は男がきらいです。男はただ女を困らすばかりですから」は、男たちに翻弄されながら、謎めいた短い生涯を送った川島芳子の本音だろう。

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