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「名言との対話」 4月14日。三波春夫「お客様は神さまです」

三波 春夫(みなみ はるお、1923年7月19日 - 2001年4月14日、本名・北詰 文司(きたづめ ぶんじ))は、浪曲師、演歌歌手。

新潟県長岡市塚野山で誕生。家業は本屋。13歳で東京に出る。米屋、製麺工場、築地の魚河岸で住込み奉公。16歳で日本浪曲学校に入学。東京・六本木の寄席、新歌舞伎座で初舞台。芸名は南篠文若。20歳で陸軍入隊。終戦ののち、22歳から26歳までロシアのハバロフスク、ナホトカで捕虜として抑留生活を送る。労働の合間に浪曲、演劇、歌を創り演じることで仲間を慰め、多くを学んだ。

帰国後、浪曲家として舞台に復帰。1957年、三波春夫として「チャンチキおけさ/船方さんよ」でデビュー。1960年、大阪新歌舞伎座で、芝居と歌謡ショーの大劇場一ヶ月公演を実施。翌年からは東京・歌舞伎座でも始め、1月は名古屋・御園座、3月は大阪・新歌舞伎座、8月は東京・歌舞伎座と、定例月にて20年連続で公演した。

「大利根無情」「東京五輪音頭」「世界の国からこんにちは」長編歌謡浪曲「元禄名槍譜 俵星玄蕃」などがある。代表作として私の耳に残っているのは、1964年の東京オリンピックのときに、「東京五輪音頭」と「世界の国からこんにちは」である。1994年発表の「平家物語」で日本レコード大賞企画賞受賞。1986年紫綬褒章、1994年勲四等旭日小綬章 受章。

笑顔がトレードマークで、雑念を払って澄み切った心で歌おうと心がけていた。モットーは「常に新しい芸を、新しい作品を」だった。煙草はたしなまず、空き時間は本を読んでいて、作詞、エッセイ、歴史本を書くために原稿用紙に向かっていた。永六輔は「歌う学者」と呼んでいたそうだ。

1977に「徹子の部屋」に出演した映像をYOUTUBEでみた。軍隊と戦後の捕虜時代の苦労話だったのだが、記憶力がよく、頭がいいという印象を持った。笑顔で明るい調子で明快に語る姿に感銘を受けた。2年間の軍隊生活と4年間の捕虜生活時代には、一人でやる浪曲よりも、みんなでつくりあげる芝居に惹かれている。「まったく知ない人を殺すんだから、戦争というのは実におろかなものだと思いました」と述懐している。それを明るい調子で語る。日本兵もソ連兵も最後は「おかあさーん」「ママー」と言って死んでいく。母の愛は神さまに近いとも語っている。

三波春夫の歌は、さまざまな歌番組で聴いたが、もっとも人口に膾炙している言葉は「お客様は神さまです」だろう。どういう意味で、どういう心境でそう言ったのだろうか。本人の口から聞いてみよう。

「舞台に立つときは敬虔な心で神に手を合わせた時と同様に心を昇華しなければ、真実の芸はできない」「いかに大衆の心を掴む努力をしなければいけないか、お客様をいかに喜ばせなければいけないかを考えていなくてはなりません。お金を払い、楽しみを求めて、ご入場なさるお客様に、その代償を持ち帰っていただかなければならない」「お客様は、その意味で、絶対者の集まりなのです。天と地との間に、絶対者と呼べるもの、それは『神』であると私は教えられている」 「自分はすべての人をお客様だと思っているわけではない。ステージを見に足を運んでくださる人だけがお客様だと思っている。そうした方々は『絶対者』だろう。ステージが〈天〉なら客席は〈地〉で、その天地の中にいる唯一の絶対者がお客様。そういう存在を〈神様〉というのだと自分は教わった」「お客様に自分が引き出され舞台に生かされる。お客様の力に自然に神の姿を見るのです。お客様は神様のつもりでやらなければ芸ではない」。

同じ言葉でも人によって届き方が違うのだが、三波春夫の生涯や残した歌や言葉を眺めると、「お客様は神さまです」は、仕事に向かう態度そのものだと深く納得する。

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