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「名言との対話」 10月8日。山本鼎「自分が直接感じたものが尊い」

山本 鼎(やまもと かなえ、1882年(明治15年)10月14日 - 1946年(昭和21年)10月8日) は、日本の版画家・洋画家・教育者。

数え年10歳で木版工場の丁稚になり、木版刷りを学び、「版画」という新しい単語をつくる。東京美術学校洋画科で油彩技術に頭角を現す。29歳でフランスにわたる。小杉未醒と親交。フランス、イギリス、イタリア、そしてロシア革命直前のモスクワ滞在を経て、33歳で帰国。この間、日本は世界一の版画国であるとの確信を持った。

34歳、北原白秋(3歳年下)の妹いゑと結婚。35歳、日本制作版画協会を設立(会長)。38歳、自由学園美術科講師。39歳、春陽会設立に参加。帝展洋画部(藤島武二ら)、二科会(有島生馬、坂本繁二郎、安井曾太郎、熊谷守一ら)、春陽会(小杉未醒、梅原龍三郎、岸田劉生、中川一政、万鉄五郎、小山敬三ら)の鼎立になる。

1923年、40歳で長野県に日本農民美術研究所を設立。41歳、『アトリエ』誌を創刊、『農民美術』誌を創刊。42歳、『実用手工芸講座』刊行開始。44歳、『工芸時代』誌を創刊。48歳、日本版画協会が発足し副会長。59歳、榛名湖畔で倒れる。63歳、死去。村山槐多(流行性感冒で23歳で死去)は従兄弟。

帰国後、児童画とその指導方法の改革を目指した児童自由が運動を起こす。お手本の模写が主流の図画教に異議を唱え、自分の目で見て、感じたとったものを描くことが、児童の発達にどれほど大切かを説いた。神川小学校で第1回児童自由画展覧会を開催して好評を博し、自由画教育は全国各地に広がる。「意匠の頭とは、要するに仕事を立体的科学的に考える頭なのである」と考えていた山本鼎は、羽仁もと子の自由学園では図案教育も行っている。面白い構成を創作することが目的であり、コンストラクション(構成)に重点を置いたデザイン教育であった。

また農民美術運動を起こしている。冬の農村の副業として、農民が生活雑貨や木彫人形を作り、都市へ向けて販売しようとする運動で、農民美術は人気商品になっていく。しかし民芸運動を展開した柳宗悦からは、日本に根ざしていないとの批判も受けている。

小崎軍司『山本鼎評伝』を読むと「 男の生きがいは仕事をすることですよ。失敗したら恋愛がある。男が仕事に疲れ、傷ついたときは、女が慰めてくれますよ」と語っていた山本は発展家でもあったこともわかる。

誰かが描いたお手本の模写の程度を競うのではなく、自分がみたもの、自分が感じたものを描くべきだ。お手本は目の前にある自然なのだという自由主義的な思想と、農民と美術を結びつけた社会主義的な思想に彩られた大正デモクラシーの時代を息せき切って走った。そしてしだいに皇国史観にもとづいた拡張主義がすすむ時代を迎えながら、山本鼎は膨大な借金と疲労の蓄積に悩みながらも、エネルギッシュに自身の思想を実践していった。山本鼎からは、模倣ではなく創造を行え、というメッセージを受け取ろう。

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