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「名言との対話」8月20日。金栗四三「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」

金栗四三(かなくりしそう、1891年8月20日-1983年11月13日)はマラソン選手。
熊本県玉名郡出身。旧制玉川中学校で特待生に選ばれ、1910年に東京高等師範学校に入学。嘉納治五郎の薫陶を受ける。ストックホルムオリンピック大会のマラソン予選会で世界記録を破った大記録を出した。ストックホルム大会では日射病のため棄権をする。金栗は徴兵検査不合格になっている。ストックホルムの敗北以後の精進を見ていた兄が「弟のご奉公はマラソンを通して国威を発揚することにある」とし、運動をした結果である。
ベルリンオリンピックは中止となった。アントワープオリンピックでは16位に終わった。パリオリンピックでは途中棄権だった。
39歳で故郷に戻りるが、5年後の1936年日本初の東京オリンピック準備のため再度上京するが、日本は開催を返上してしまう。
1945年に故郷へ戻りこの地で障害を送ることとなる。現在の福岡国際マラソンの成立に尽力。1953年にはボストンマラソン日本選手団長として渡米している。1948年には熊本県の初代教育委員長に選出された。
1967年にスウェーデンのオリンピック委員会から招待される。競技中に失踪し行方不明となった金森は競技場でテープを切ったタイムは54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3であった。金森は「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントし話題になっている。この記録はマラソン完走最長タイムとしてギネスの世界記録に登録されている。
金栗のマラソン十訓がある。規則正しい生活。忍耐力。短より長へ。精神の平静。勢力を浪費せず。暴飲暴食はするな。酒、煙草は厳禁。競争は大胆に。17、8歳から35、6歳が適当。最後まで堂々と。
故郷の熊本に帰った以後、どのような生活を送ったのだろうか。長谷川孝道「走れ2万5千キロ マラソンの父 金栗四三伝」を読んだ。金栗は「熊本のスポーツ熱をあおろう」と決意する。
大正8年の下関ー東京、11年の樺太ー東京を走っている。金栗は九州一周を20日間で達成し、日本を北から南まで走破したことになった。福岡国際マラソン箱根駅伝の創設にも功績がある。
スポーツ人初の紫綬褒章熊日社会賞。朝日文化賞。お釈迦様とまで言われた人徳で、熊本県の初代教育委員長にもなっている。
裾野をひろげて頂点を高める国民運動としての「カナクリズム」を推進した金栗はマラソンの父、マラソン王とよばれている。
生涯の記録は、地球6周の25万キロ。「体力、気力、努力」のマラソン人生だった。
2019年のNHK大河ドラマ「いだてん」では中村勘九郎が好演して、それが金栗四三のイメージとして国民の間に定着したのではないか。

久恒啓一 (id:k-hisatune) 1日前

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