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「名言との対話」4月27日。「何事も“至誠”で貫け。至誠をさらに三綱五則に分け、三綱は正義の観念、勤勉の意気、秩序の風習。五則は、義務、礼儀、信義、勇気、質素である」

小菅丹治2代目(こすげ たんじ 1882年4月27日〜1961年9月16日)は、経営者。

東京外神田の「湯島聖堂」の隣の丸和ビルの2界の「企業家ミュージアム」(市川覚峯代表)がある。英語では、Company Spirit Museum となっている。日本の起業家たちの魂を継承しようという趣旨である。そのホームページには、初代の小菅丹治について次のように紹介されている。

「神奈川県の農家の次男に生まれた小菅丹治は、十三歳で東京の湯島天神近くにあった呉服店「伊勢庄」に奉公に上がった。厳しく苦しい修業が続くが、丹治は歯を食いしばって耐え、二十八歳で独立、神田明神下に小さな「伊勢屋丹治呉服店」を開いた。丹治は店員と共に汗みどろになって働いた。また、店員にはいつもやさしい思いやりをかけていた。 日々の食事は、ほかの店では最初に主人が食べ、その次に番頭、手代、丁稚といった具合に順番が決まっていたが、丹治の店ではみんなが一緒に、なごやかに談笑しながら食べた。しかも主人も使用人も、全く同じものを食べた。 また店員が、一生懸命やって失敗したことなら、いろいろと話して聞かせるが、決して叱ったりはしなかった。企業が伸びるか否かは、いかに人を大切にするかどうかにかかっていると丹治は語っていた。伊勢丹の人事管理の基本には“人間尊重”にある。これは初代小菅丹治が創業時につくりあげたものである。伊勢丹は今でも人間を大切にし、働きやすい職場をつくりあげるという考え方が継承されている。」
伊勢丹は新宿が本店で、ファッション性の高い衣料品の提供で、ファッションミュージアムとも呼ばれ、中高年と若い世代にも人気がある。1968年にはジンクスを破り、メンズ館が成功した。百貨店事業を中心に、7700億円の売り上げがあった。2008年に経営危機に陥った三越を救済する形で、経営統合し、三越伊勢丹ホールディングスとなった。多摩大でも講義をしてもらった大西洋さんが2009年から2011年まで社長を務めたので、私にもなじみがある。

伊勢丹」は、伊勢屋丹治呉服店をつづめたものだったことを初めて知った。伊勢丹の「店祖」の小菅丹治という名前は、代々が名乗っているという。調べると、2代目は、初代小菅丹治の長女の婿で、高橋儀平が名前を変えている。1930年から1960年まで社長をつとめている。

初代の精神である「主人と使用人は分け隔てなく同じものを食べることだ。また店員に失敗があっても、ガミガミと叱ったりせず、できるだけにこやかにしていることだ」は、2代目も継承した。

冒頭に掲げた二代目の「三綱五則」は小菅家の「家憲」として制定されていたもので、1964年までは伊勢丹の「店憲」としても踏襲されていた。関東大震災を経て、1924年3月に百貨店形式とし、1930年に株式会社伊勢丹に改組、1933年には新宿本店を開店した。「帯と模様の伊勢丹」との評判を得た人気呉服店を、百貨店に進化させ「中興の祖」となった。そして、3代目は、2代目の長男の小菅利雄で、同じく小菅丹治を名乗っている。

このように企業の経営者は、同じ名前を代々が使うということがある。人間は変わっても、人格や思想は一貫しているということなのだろうが、これは興味深い方法だ。それを実現するためには、日本の特徴である養子制度が貢献している。商家では娘が生まれると喜ぶということがあった。奉公人の中から優れた人を婿に迎えることで、家が安泰になるからだ。日本の家は法人という考え方であり、ときどきのトップは実子でもいいし、養子でもいいというから長く存続することができた。明治維新で「株式会社」が入ってきたが、それは今までと同じだったから、スムーズに資本主義が導入されたのだ。創業者の名前をずっと継承している企業を調べてみよう。また、企業家ミュージアムも訪問したい。人物記念館1000館達成後の活動のヒントになるだろうと思う。

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