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「名言との対話」7月28日。大原孫三郎「十人の人間の 中、五人が賛成するようなことは、たいてい手おくれだ。七、八人がいいと言ったら、もうやめた方がいい。二、三人ぐらいがいいという間に、仕事はやるべきもの」

大原 孫三郎(おおはら まごさぶろう、1880年7月28日 - 1943年1月18日)は日本実業家倉敷紡績クラボウ)、倉敷絹織(現在のクラレ)、倉敷毛織、中国合同銀行(中国銀行の前身)、中国水力電気会社(中国電力の前身)の社長を務め、大原財閥を築き上げる。

2014年に倉敷の美観地区を訪ねた。倉敷は河岸に倉庫が立ち並ぶ町で、蔵屋敷、蔵敷地などと呼ばれていた。それが蔵敷となり、いつの間にか「倉敷」となった。徳川時代は幕府直轄の天領であり、代官所跡に倉敷紡績ができた。それが近代の発展の原動力になった。「倉紡記念館」は1967年に創業記念事業でつくられた倉敷紡績の歴史記念館である。

大原美術館は、エルグレコの受胎告知、モネ、ピカソロダンなどの傑作が並ぶ素晴らしい美術館である。一歳年下の親友・児島虎次郎が欧州で買った大量の絵が基礎になっている。

30歳で二代目社長となった大原孫三郎は、社会、文化事業にも熱心に取り組み、倉紡中央病院(現・倉敷中央病院)、大原美術館、大原奨農会農業研究所(現・岡山大学資源生物科学研究所)、倉敷労働科学研究所大原社会問題研究所(現法政大学大原社会問題研究所)、私立倉敷商業補習学校(現岡山県立倉敷商業高等学校)を設立した。
大原孫三郎は「従業員の幸福なくして事業の繫栄はない」という労働理想主義を掲げ、敷地内に小学校や工手学校などの学校をつくるなどユニークな労務管理を行い、飛躍していく。人道主義、人格主義、キリスト教社会主義社会改良主義と、その思想は移行していく。高い業績をあげた大原社会問題研究所は現在は法政大学に移って存続している。倉敷労働科学研究所は、(財)労働科学研究所となっている。
大原孫三郎は、1万人の従業員のために倉敷中央病院、倉敷高松病院倉敷販売利用組合、若竹の園などもつくった。最盛期には1200人を擁した岡山孤児院をつくった石井十次(1865年生)と親交を持った。倉敷中央病院は、治療本位の設計、明るい病院、東洋一の病院という考え方で造られ、開所式には後藤新平が来て祝辞を述べている。

1932年にリットン調査団の一部が大原美術館をみて驚き、二次大戦で空襲から免れた。また若き孫三郎は倉敷の陸軍の連隊の配置に反対し計画を流したため、空襲を避けることができた。二重の意味で、倉敷の恩人である。

城山三郎『わしの眼は十年先が見える』(新潮文庫)を読んだ。孫三郎の語録を拾ってみよう。

「わしの一生は、失敗の連続だった」「わしの一生は、反抗の生涯だった」「学校の先生に 褒められるような 奴 に、ろくなのは居「すべてが建設でなくてはならぬ、創作でなくてはならぬ」「下駄 と 靴 を片足ずつ履いていた」

「わしのいちばんの傑作は總一郎じゃ」とする長男の總一郎が晩年の父孫三郎からよく聞かされたのは、 「十人の人間の 中、五人が賛成するようなことは、たいてい手おくれだ。七、八人がいいと言ったら、もうやめた方がいい。二、三人ぐらいがいいという間に、仕事はやるべきもの」という言葉だった。

「わしの眼は十年先が見える」と言った孫三郎は、十年先どころか、百年先のフィランソロピーの登場を見ていたのではないかと生涯を眺めると思えてくる。仲間の半分が賛成するような施策はすでに手遅れであろう。未来へ向けての決断がテーマである経営は、多数決で行っては断じてならない。



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