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「名言との対話」5月7日。本居宣長「志として奉ずるところをきめて、かならずその奥をきわめつくそうと、はじめより志を大きく立ててつとめ学ばなくてはならぬ」「しょせん学問はただ年月長く、うまずおこたらずに、はげみつとめることが肝要である。まなび方はいかようにしてもよいだろう」

本居 宣長(もとおり のりなが、享保15年5月7日(1730.6.21)~享和元年9月29日(1801.11.5) は、江戸時代国学者・文献学者・医師。「古事記伝」44巻を完成。享年71。

本居宣長は、34才で伊勢参りに来た賀茂真淵(67才)と対面し、入門を許される。その後は、真淵が亡くなるまでの6年ほど手紙を通じて古代の人の心を知るために質問を出し、回答をもらうという時間を過ごす。これが有名な「松坂の一夜」である。35歳で着手した「古事記伝」全44巻を、35年の歳月をかけて70歳で完遂し、翌年に亡くなっている。宣長没後に、平田篤胤が入門し後継者として国学を研究していく。これが後の明治維新尊皇攘夷運動の原動力となっていく。近代を真っ先に切り拓いた人である。

宣長は記録魔だった。日記は、自分の生まれた日まで遡って書き、亡くなる二週間前まで書き続けていて、「遺言書」を書いて葬式のやり方から墓所の位置まで一切を指示している。日記には、あらゆる日常が記されている。日々の天候、社寺参詣の事、身辺の冠婚葬祭、歌会、講義、会読、自己及び家族近親の往来、旅行、病気、書簡の往来、町内の些事、出産等の慶事の記録。幕府・藩侯からのお触れ、天変地異、火事、寺院の開帳、芝居の興行。皇室をはじめ、幕府・藩の高官の動向、大坂・江戸・京都の様子、参宮などの往来。毎年の記載の終わりには米価の相場も記録していた。を書いて葬式のやり方から墓所の位置まで一切を支持している。

宣長は学問において、最も重要なことは「継続」であると考えていた。そのためには生活の安定が大事だと考えていた。彼の生活スタイルは、昼は町医者としての医術、夜は門人への講釈、そして深夜におよぶ書斎での学問だった。多忙な中で学問をするために、宣長は「時間管理」に傾注する。近所や親戚との付き合いをそつなくこなし、支出を省く。そうやって時間を捻出し、金をつくり書物を買い、そして学問の道に励んだ。学問する環境をいかに整えていったか、そして日常生活をいかに効率的に過ごすかというマニュアルが膨大に残っている。

本居宣長は五百人の門弟を抱えていたが、彼の偉い点は、「学ぶことの喜びを多くの人に教えた」ことにある。

  • 「道をまなぼうとこころざすひとびとは、第一にからごころ、儒のこころをきれいさっぱり洗い去って、やまとたましいを堅固にすることを肝要とする。」

  • 「総じて漢籍はことばがうまく、ものの理非を口がしこくいいまわしているから、ひとがつい釣りこまれる。

  • 才のとぼしいこと、まなぶことの晩(おそ)いこと、暇のないことなんぞによって、こころくじけて、やめてはならぬ。なににしても、つとめさえすれば、事はできるとおもってよい。

  • 主として奉ずるところをきめて、かならずその奥をきわめつくそうと、はじめよりこころざしを高く大きく立てて、つとめまなばなくてはならぬ。

自らのテーマに沿って、あらゆる言い訳はしないで、うまず、たゆまず、学んでいくことが大事であると宣長はいう。35歳の時に着手した「古事記伝」全44巻を、35年の歳月をかけて70歳で完遂し、翌年亡くなっている。この本居宣長の言葉だけに納得感が深い。

2010年に三重県松坂市の本居宣長記念館を訪問し、田中康二『本居宣長』、橋本治小林秀雄の恵み』を読み、また本居宣長自身の著作『葦わけ小船』、『宇井山踏』を読む機会があり、本居宣長の生涯と主張に深く共感している。

宣長は記録魔だった。そして継続の人だった。志を立て、うまずたゆまず進んでいけば、何ごとも達成できる。そして世界を変えることができる。そういうことを本居宣長尊い人生は教えてくれる。

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