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「名言との対話」1月23日。新島襄「男児志を決して千里に馳す 自ら辛苦を嘗む豈(あに)家を思わんや 却って笑う春風雨を吹く夜 枕頭尚夢む故国の花」

新島 襄(にいじま じょう 英字表記:Joseph Hardy Neesima、1843年2月12日天保14年1月14日) - 1890年明治23年)1月23日)は、キリスト教教育者である。同志社大学創立者

2012年に群馬県安中の新島襄旧邸を訪問した。その時の寄稿文をもとに、新島を語りたい。

元服後、アメリカの地図書から、アメリカの制度に触れ、憧れを持つようになる。その後、幕府の軍艦操練所で洋学を学ぶ。アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書に出会い「福音が自由に教えられている国に行くこと」を決意し、当時は禁止されていた海外渡航を思い立つ。
21歳の時に函館から出航しアメリカに渡る。私は函館の港で「新島襄出航の地」という碑を見たことがある。また京都の同志社大学のNiijima Roomという名前の記念室を訪問したこともある。

新島が渡米した1864年当時はまだ幕末で騒然とはしていたが、まだ鎖国が継続中であり、見つかれば死罪という冒険だったのだ。フィリップス高校、アーマスト大学、アンドーヴァー神学校と勉強を重ね、滞米10年を経て、新島は1974年に横浜に到着する。28歳の時には、ワシントン駐在の森有礼(1847年生まれ)とボストンで会い、留学生という形にしてもらっている。日本で休暇をもらった新島は故郷に帰り、家族のいるこの家に29日間滞在する。この間、キリスト教を語り、この安中は上州伝道の礎石となるのである。家の裏に詩碑「十二の石塚」があり、湯浅半月の詩が刻まれている。題字は新島とも縁の深い徳富蘇峰1863年生まれ)だった。


キリスト教の大学を創ることを志とした新島は、32歳の時に同志社英学校を開校する。最初の出発は8人の生徒だった。そして33歳の時に、友人となった会津出身の山本覚馬京都府会初代議長)の妹・山本八重と結婚する。この八重は戊辰戦争に従軍した女丈夫(おんなますらお)であり、NHK大河ドラマの主人公になった女性である。八重は会津若松城の落城の歌を詠んでいる。「明日の世は何国の誰か眺むらんなれしを城に残す月影。「のぼる、八重さん」と呼び合った二人は西洋スタイルの生活を送る。新島は家事にも協力的だった。


1883年に開催された第三回全国基督教徒大親睦会の集合写真に、新島襄と内村鑑が隣同士で並んでいる珍しい姿を発見した。この写真には津田仙の熊本バンド、韓国の李樹延などのメンバーがみえる。この二人は同年齢にみえたが、実際は新島40歳、内村22歳だった。

「いしかねも透れかしと一筋に射る矢にこむる大丈夫(ますらお)の意地」

「良心の全身に充満したる丈夫の起り来たらん事を」(良心碑:同志社大学今出校地)

「時危思偉人」(時危うして偉人を思う)
「偉人とは一国の良心ともいうべき人。良心を手腕に運用する人物」。

「天を怨みず、人を咎めず」。

「腹の立ったときに、小言をいうな」。

アメリカ人の言葉に『時は金なり』とありますが、むしろ『時は金よりも尊し』と述べたい」。

男児志を決して千里に馳す 自ら辛苦を嘗む豈(あに)家を思わんや 却って笑う春風雨を吹く夜 枕頭尚夢む故国の花」、これがアメリカで新島襄が書いている志である。

新島が1864年鎖国の禁をおかして函館港からアメリカへ密航したのだが、ちょうど南北戦争が終わった年(1865年)にボストンに到着。そして勉学と苦難のうえに、1875年に同志社英学校を設立するが、これは明治8年だ。明治元年は1868年、明治4年に新橋横浜間の鉄道が開通、明治5年にに富岡製糸場の開場、という事実をみると、明治の近代化のスピードの凄まじさを感じる。こういった時代の転換期に生きた一人の日本人青年の高い志と、その強さに感銘を受ける。学校をつくることが最も後世に影響を与えると思う。新島襄の場合は、神の如くあがめていた徳富蘇峰(猪一郎)、「民本主義」の吉野作造、新島から洗礼を受けた安倍磯雄、桜美林大学創立者清水安三などが思い浮かぶ。学校は創立の学祖と建学の精神が重要なのだ。そういう意味で、同志社創立者の為した事業は「偉業」である。

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