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「名言との対話」10月2日。円地文子「私は、ひとつ所にとどまるのが嫌なんです」

円地 文子(えんち ふみこ、1905年明治38年)10月2日 - 1986年昭和61年)11月14日)は、日本小説家

東京浅草生まれ。高名な言語学者上田万年(東京帝大教授)の次女として育つ。父母、祖父母から江戸時代の歌舞伎、浄瑠璃、草双紙の世界を教えられる。英語、フランス語、漢文などは個人教授で学ぶ。小山内薫の影響で10代後半から演劇に関心をもち戯曲を書き、23歳で劇作家として世に出る。24歳で新聞記者の円地与四松と結婚。

1936年から小説に方向転換するが、雌伏の時代を迎える。1953年、「ひもじい月日」で女流文学賞。以後、「朱を奪うもの」、「女坂」、「妖」、「女面」、「花散里」、「傷ある翼」、「小町変相」、「なまみこ物語」などを発表し、文壇での地位を確保する。

代表作である「女坂」は、母方の祖母をモデルに、家や夫に縛られ過ごした女の一生を、坂を登り続ける苦しみにたとえて描いた作品である。1949年から8年の歳月をかけた長編である。この作品は野上弥栄子「迷路」、三島由紀夫金閣寺」、谷崎潤一郎「鍵」、吉川英治「新・平家物語」という有力候補を破って、野間文芸賞を受賞している。円地文子の作風は、女の業、執念、老醜、そして妖性、神秘性を描くところにある。

1958年、女流文学者の会長となり、18年間その職にあった。1967年、61歳から「源氏物語」の現代語訳にかかり、5年半をかけて完成する。「円地文子源氏物語」全10巻を刊行。円地は60代、70代も小説を書き続ける。1970年、日本芸術院会員。1978年、「円地文子全集」全16巻が完成。1985年、女流作家として野上弥生子に続く2人目の文化勲章

華やかな経歴にみえるが、その間、32歳での乳房切断以降、病気も多く、自分との戦いであったと述懐している。

NHK人物録では、「私は、ひとつ所にとどまるのが嫌なんです」と語っている姿をみた。この人は、作家としての女坂を、登り続けた人である。山本周五郎の自伝的作品の長編「長い坂」を思いだした。同様に周五郎も坂を登り続けたのである。あるスタイルを確立したら、そこを掘っていくのではなく、次の高みに挑んでいく。その挑戦的な姿は参考にしたいものだ。

円地文子の生涯をながめると、環境というものを考えざるを得ない。知的で文学的で、江戸情緒を深く吸い込むにいたった幼少の頃の家庭環境の影響である。それは生涯を通じて、作品に投影している。

そして、「源氏物語」である。円地文子は脂の乗り切った60代の5年半をかけて現代語訳を完成したのであるが、著名な作家たちは、日本文学の最高峰たる「源氏物語」の現代語訳に挑む人が多い。与謝野晶子谷崎潤一郎円地文子田辺聖子橋本治瀬戸内寂聴林望角田光代などの、それぞれの「源氏」がある。歌人の窪田空穂、尾崎佐永子なども挑戦している。こういった系譜を追うのも面白いだろう。


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