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「名言との対話」12月14日。植芝盛平「合気とは敵と戦い敵をやぶる術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である」

植芝 盛平 (うえしば もりへい、 1883年 〈 明治 16年〉 12月14日 - 1969年 〈 昭和 44年〉 4月26日 )は、 日本 の 武道家合気道創始者

和歌山県田辺市出身。植芝盛平記念館を併設した田辺市立武道館が、2020年10月に開館している。この記念館では植芝盛平の生涯を「若き日の苦行独行 0~36歳」、「合気道の夜明け 37~58歳」、「合気道の普及 59~86歳」の3つの年代に分けて展示している。合気道体験映像では、基本となる「構え・歩方」、「座法」、「体さばき」の3つの体験コースがあり、それぞれ、「お手本を見る」⇒「実践」⇒「確認」のステップで体験できる。気・心・体サークルでは、「気」「心」「体」をそれぞれイメージした盛平翁の写真や肉筆の書をスクリーンに投影している。

合気道を創始した植芝盛平は、156センチという小柄ながら、柔道、剣術など多くの武道の修業と、出口王仁三郎大本教などの精神哲学を学んだ成果として、合気道を創始した。戦時中は、陸軍憲兵学校海軍大学校などで指導を行った。「山川草木、ひとつとして師とならざるものはない」。

交流のあった人物は、南方熊楠山本権兵衛嘉納治五郎野間清治大川周明正力松太郎大山倍達。出口王に三郎など、同時代の傑人が多い。門人には塩田剛三藤平光一などがいる。

塩田剛三(1915年生)は身長154cm、体重46kgと小柄な体格ながら「不世出の達人」と評され、「現代に生きる達人」「生ける伝説」とも謳われた、合気道の達人である。すでに講道館柔道の有段者であった18歳のときに、植芝盛平が営む植芝道場を見学に訪問。一瞬で飛ばされた塩田は「弟子にしてください」と即日入門した。この師弟関係は植木が亡くなるまで続いた。1961年には植芝から合気道九段(最高位)の免状をもらう。1983年には、国際武道院より範士号を、 1985年には国際武道院より合気道十段を、1988年には国際武道院より合気道名人位を授与された。「実戦では当身が七分で技(投げ)三分」というモットーを植芝の教えとして度々語っていた。「合気道の本質は、相手と自分の気を合わせ相手の攻撃を無力化することにある」は塩田の言葉である。

藤平光一1920年生)は幼いころから病弱であった。慶応義塾大学入学後、山岡鉄舟の高弟の小倉鉄樹から禅や呼吸法を学び体が強くなる。19歳から植芝盛平合気道を学ぶ。卒業後、中村天風に師事し心身統一法を学ぶ。1953年に渡米し、全米20州に合氣道を普及した。1971年、「氣の研究会」を組織し、1974年に心身統一合氣道会を立ち上げ、国内外に20万人を超える会員を擁した。「氣」の字の外側は天体をあらわし、中の「米」の部分は中心から八方に広がっている状態を指す。「氣」には天体のように八方に広がっていくという意味がある。「気」は自分の中に「氣」をためるために出口を締めるという意味だから、正しいのは「氣」だ。私は仙台時代に、友人の富田秀夫さんに紹介されて藤平光一の高弟に「氣」を学んだことがある。富田さんは現代医学の最高峰の学者が指導する「氣」の呼吸法の教室に長く通っている。先日、この医学者に紹介されて東京で会ったが、西洋医学では説明できない「氣」を解明したいと語っていた。「出ずる息は天地万世に及び、吸う息は腹内の寸分におさまる」は、藤平の言葉である。

2022年4月に、京都亀岡の大本教を訪問した時、近隣のNPO和良久の前田比良聖さんにあった。極真空手空手バカ一代大山倍達、kー1。、、40年前に大本の人との出会いがきっかけ。植芝盛平という合気道創始者と出会い、海外でも指導を行った人だ。「言霊の理論」を実践によって体系化、技化した人であり、佐々木小次郎の木剣を復元していた。

開祖・植芝盛平の創始した合気道は、現在では柔道、空手に次ぐ日本初の国際的武道として隆盛を誇っている。植芝盛平は、紫綬褒章、勲三等瑞宝章を受章している。

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