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「名言との対話」11月24日。西園寺公望「旦那寺食わしておいてさてと言い」

西園寺 公望(さいおんじ きんもち、1849年12月7日嘉永2年10月23日[注釈 1] - 1940年昭和15年)11月24日)は、日本公家政治家教育者

桂太郎と交代で総理をつとめ「桂園時代」と呼ばれた。「最後の元老」。

京都出身。学習院で学び、後の明治天皇の近習となる。戊辰戦争に参加。維新以後は開成学校でフランス語を学ぶ。京都で家塾「立命館」を創始する。1871年にフランス留学。ソルボンヌ大学初の日本人学士となった。政治家クレマンソーと同じ下宿で親友となった。

1880年に10年の留学を終えて帰国。伊藤博文憲法調査のヨーロッパ歴訪に参加し伊藤の信任を得る。1894年に45歳で伊藤内閣の文部大臣、後に病気で退任した陸奥宗光の後任の外務大臣も兼任。1898年には再び伊藤内閣の文部大臣。枢密院議長を経て、政友会総裁。1906年桂太郎からの禅譲で総理に就任。その後、桂と西園寺は交代で総理をつとめていく。二人はライバルであり、また親友であった。西園寺は「君と僕とで国家を背負ふて立とうではないか」と言っている。1916年には元老となった。

第一次大戦終了後のパリ・ベルサイユ条約の首席全権。会議では一言も発せず、会場をにらんでいたとされ、話題になっている。ここでクレマンソーと20年ぶりに再会している。

大正末期から昭和初期にかけて、元老として何度も首相推薦の役をつとめている。「山公(山県有朋薨去後は松方侯は老齢でもあり、、、自分は全責任を負ひ宮中の御世話やら政治上の事は世話を焼く考なり」と、山県の後継者であることを意識していた。

1936年の二・二六事件を経て次第に政治上の権力を失っていく。それでも最後まで軍部の圧力に屈しず、日本を導いていこうとした。しかし、その努力は報われず日本は日独伊三国軍事同盟を締結して戦争に向かう。「まあ馬鹿げたことだらけで、どうしてこんなことだろうと思うほど馬鹿げている」と嘆いている。

西園寺公望は5つか6つの頃から酒をちびりちびりと飲む子どもだった。後年、洋服を着て参内したのも、公卿で断髪したのも公望が最初だった。進歩的思想の持ち主だった。

常に「名門だから」と言われる悲哀があり、実力をもって天下に立ちたいと、自由思想にあこがれていた。すべての官位を辞し、名も望一郎と平民的な名前に変えることもしている。

「いろいろやってみたが、結局、人民の程度以上にはならなかった」と語っている。92歳という高齢まで日本の近代化に努力した西園寺公望が、戦争に向かう道を防ぎきれなかったことを嘆いた言葉である。政党が育たなかったという嘆きだ。

公債を募集することになったとき、実業家たちを総理官邸に招き宴会を開いた。最初の挨拶は「旦那寺食わしておいてさてと言い」から始めて感心させ、成功している。こういうユーモアは威力がある。

90歳で逝去するまで、「最後の元老」として、大正天皇昭和天皇を輔弼し、実質的な首相選定者であった。その首相たちの人数と名前を眺めると、苦労が多かっただろうと推察される。自身に対しても、政党、軍などからの毀誉褒貶が多く、政治に嫌気もさしていたことが残っている言葉からもわかる。仕えた伊藤博文に対しても「政治などというものは、ここの親爺(伊藤博文)のような俗物のやることだ」と同席した尾崎行雄に吐き捨てるように言ったという。

しかし、日本の運命を切り盛りする大役を果たそうとした心意気は壮であり、またユーモリストで皮肉屋であったことが示すように、元老時代は政治の世界との絶妙な距離感を保っていたのであろう。


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