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「名言との対話」2月4日。秋山真之「人間の頭に上下などない。要点をつかむという能力と、不要不急のものは切り捨てるという大胆さだけが問題だ」。

秋山 真之(あきやま さねゆき、旧字体: 秋山 眞之、1868年4月12日慶応4年3月20日〉 - 1918年大正7年〉2月4日)は、日本海軍軍人

秋山真之日露戦争日本海海戦バルチック艦隊を破った天才参謀で、私のビジネスマン時代のモデルでもあった。2月4日は秋山真之の没した日。

ビジネスマン時代には司令官型よりも参謀型を目指していた私は、日本海海戦の作戦参謀・秋山真之をモデルに仕事に励んでいた。客室本部という大きな部隊の参謀時代は、常に自分の組織を海軍に見立てて、秋山の作戦立案や海軍の人事制度などを研究したものだ。

秋山は「一日怠ければ日本が一日遅れる」と言った。こういう心情は明治の志のある青年たちに共通のものであった。学問、医学、音楽、写真、文学、、などあらゆる分野でそうであった。

秋山真之は松山出身で、正岡子規とは幼馴染みであった。最終的に進むべき道は異なったが、どちらも時代の落とし子だったのだ。

大事なのは、末ではなく、本である。枝葉末節の細かな点の確認より、要点、本質をつかむことが、課題解決へ向けての真っ直ぐな道だ。その道を歩むためには余計なことには心を煩わせないようにしたい。日本を救った秋山のこの言葉には深く納得する。

以上は、2016年に書いた文章だ。以下、補足する。

秋山真之といえば、司馬遼太郎坂の上の雲』の主人公の一人として、なじみがある存在である。1897年に29歳でワシントンの公使館付留学生。1898年の米西戦争を観戦。1900年パリ万博を訪問したとき、「日本のインテリは狭い意味での小専門家」と仲間に語っている。1894年の日清戦争勝利後に中国に進出する日本と、南北戦争(1861-1865年)米西戦争で勝利しアジアに展開するアメリカとの出会いという時代であった。 秋山の時代は個人と組織と国家が一直線の、ある意味幸せな時代だった。それを秋山は「私が一日怠ければ日本が一日遅れる」と表現している。

児島襄『参謀』(上)は、第二次大戦中の日本陸海軍の参謀15人を取り上げた名著だ。 40代半ばまで勤めていた企業の参謀を志していた私は、日露戦争開戦の秋山参謀をモデルに励んでおり、この本も熟読していた。

日本海海戦時の「皇国ノ興廃コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」という指令の起草は秋山参謀である。

日露戦争に勝利し、連合艦隊を解散し、平時編成に戻すことになった。その際に連合艦隊解散の辞として東郷平八郎が読み上げた訓示は、バルチック艦隊を破った名参謀秋山真之の起草した歴史的名文である。「、、、神は平素ひたすら鍛錬につとめ、戦う前に既に戦勝を約束された者に、勝利の栄冠を授けると共に、一勝に満足し、太平に安閑としている者からは、ただちにその栄冠を取上げてしまうであろう。昔のことわざにも「勝って兜の緒を締めよ」とある。1905年12月21日 連合艦隊司令長官 東郷平八郎」。感動した時の米大統領セオドア・ルーズベルトは、全文英訳させて、米国海軍に頒布している。

自分の研鑽が一日遅れればその分国家の進みが一日遅れる。幕末から明治にかけての青年たちのこういう気概が明治国家を形づくった。日露戦争海軍参謀の秋山真之しかり、その他あらゆる分野で自分が一日怠ければ日本が遅れるとの決意で研鑽をした青年たちが短期間で近代化を成し遂げた。その原形は、松下村塾で青年たちを鼓舞した吉田松陰を少年期に訓育した玉木文之進の「一日勉学を怠れば国家(藩)の武は一日遅れることになる」という言葉にあった。江戸時代の国家は「藩」であり、明治は「日本」である。日露戦争でもし日本が破れていたら、日本の近代はまったく違った姿になっていただろう。この薄氷を踏む抜かずに、奇跡的に日本は乗り切った。軍事という面で、国家存亡の危機を救ったという意味で、秋山は近代日本を形作った恩人の一人である。

秋山は古今東西のあらゆる戦争を研究し、戦法、戦術を抽出し勝利の方程式を編み出した。それを使って歴史的な勝利をもたらした天才だと言われている。その秘密は「人間の頭に上下などない。要点をつかむという能力と、不要不急のものは切り捨てるという大胆さだけが問題だ」という考え方にあると思う。大きく全体をにらみ、細微にこだわらず大胆に要点のみに着目する。そして個々の戦争をひっくるめた戦史と、勝敗を分けた戦法の優劣とそれらの関係をつかもうとしたのだ。つまり、「構造と関係」という視点で戦史を研究し、独自の法則を発見し、それを現実の戦争に適用したのだと思う。この人の頭には大きな図があり、そしてそれを見事に表現できる文才が備わっていたのだ。

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