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「名言との対話」9月8日。長与専斎「衛生は自治の元素たることまた疑う可からざるなり」

長與 專齋新字体長与 専斎、ながよ せんさい、天保9年8月28日1838年10月16日〉 - 明治35年〈1902年9月8日)は、日本医師医学者官僚

長崎県大村市出身。この人の名はよく聞く。大坂の緒方洪庵適塾に入門し、3歳年上の福沢諭吉の後任として塾頭になった。

大村藩藩医を経て、長崎の医学伝習所でポンペから西洋医学を学ぶ。1868年、長崎の病院長、長崎府医学校の学頭に就任。1871年には岩倉使節団の一員として、欧州の医療制度等の実情を調査。

帰国後に「医制」の制定に着手。1874年、文部省医務局長に就任、東京司薬場を創設。ここでは、「医薬分業」を主張し「薬制」をつくろうとした柴田承桂を起用している。

1875年内務省初代衛生局長に就任。健康保護を進めるための部局として衛生局と命名した。後藤新平を抜擢し衛生局長に据えるが、後藤は相馬事件で失脚している。

衛生局長退任後も、中央衛生会会長、日本私立衛生会会頭に就任し、衛生行政を推進した。

仙川の武者小路実篤記念館で、白樺派の小説家・長与善郎が専斎の五男であることを知った。また、私の郷里・中津の医師・川嶌眞人共編『九州の蘭学ー越境と交流』でも紹介されていた。福沢とは明治には交流があった。

さて、長与専斎は、「衛生」を生涯にテーマとしていたようだ。この「衛生」はHygieneの訳語として長与が採用したものだ。「大日本私立衛生会に

おける長与専斎の活動とその評価」(小島和貴)という論文(桃山学院大が宇特定個人研究)を読んだ。

それによると、「衛生」の目的は「人生の無病長命である。そのための手段は「清浄なる空気飲水を給する」ことだとした。具体的には地中に土管を埋め込むなどの上下水道の整備、家屋の改良、道路修繕を含めた「塵芥不潔物の掃除」としている。それによって病魔の侵入から国民を護る。それを実現するためには、莫大な費用がかかることから、ドイツに倣って町村の自治こそ衛生そのものであると主張した。

官民の協調が必要であり、中央衛生会や日本私立衛生会を用いて、衛生の普及を図ったのである。今日の日本の優れた衛生環境は長与専斎が端緒をひらいたとものだ。我々はその恩恵に浴しているのだ。

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