「名言との対話」11月17日。二宮尊徳「キュウリを植えればキュウリと別のものが収穫できると思うな。人は自分の植えたものを収穫するのである」
二宮尊徳(1787年9月4日-1856年11月17日)は、江戸時代後期の経世家、農政家、思想家。
神奈川県小田原市の出身。豊かな農家に生まれたが、父母を亡くし親戚に預けられる。24歳で一家を再興。その後、小田原藩家老服部家の家政を再建。藩主大久保忠真から命じられた分家宇津家の桜町領(栃木県二宮町)の財政再建では、開墾と水利事業を行い税収を倍増させる。その評判を聞いた600以上の大名旗本家の財政再建と農村の復興事業を推進した。尊徳の唱えた「勤倹・分度・推譲」の思想は戦前の日本の模範、倫理観となった。江戸幕府は日光神領89村の復興を命じ、尊徳は「復興開発方法論」を書く。今市市に報徳役所を設ける。その途上1856年に70歳で客死する。
尊徳を祭った神社にある尊徳の墓の隣に、尊徳の遺言が記された石碑がある。「我が死応に近きあらん 我を葬るに分を超ゆること勿れ 墓を建つること勿れ 碑を建つること勿れ 只土を盛り上げその傍らに松か杉を一本植え置けばそれにて可なり 必ず我が言に違ふ勿れ」。ところが、世話になったこの土地の人々や弟子は、そうはいかなかったらしい。すぐさま墓を建て、そしてこの地に神社まで建ててしまった。この地においても業績をあげ尊敬されたのである。
「大事をなさんと思わば小なること怠らず勤むべし。小積もりて大となればなり」
「貧となり富となる。偶然にあらず、富も因て来る処あり、貧も因て来る処あり。人皆貨財は富者の処に集まると思へども然らず。節約なる処と勉強する所に集まるなり」
「至誠を本とし、勤労を主とし、分度を体とし、推譲を用とする」
2008年に栃木県今市市の報徳二宮神社を訪問。「報徳文庫」は休みで見れないといわれたが、無理を言ってあけてもらう。2階建てで下は尊徳の胸像、言葉、資料などが保管してある。上は、報徳仕法の写本2500冊だろうか、棚にたくさんの書類が並んでいる。
「世渡りの秘術は勤と倹と譲の三のみ」
「人気風儀を一新するに機会あり。百戸のうち六十戸を制するときは、やがて四十戸もこれに従う」
「交際の道は其将棋にならえ。強い者の駒を落として相手の力と相応する程度にするのだ」
内村鑑三の100年前の英文の著作『代表的日本人』では、西洋に向けて日本、日本人を説明するために、西郷隆盛、上杉鷹山。中江藤樹、日蓮と二宮尊徳を紹介している。
私の子供のころには一円札がまだ流通していた。この一円札を使って駄菓子を買っていたが、ここの資料によると、一円札の肖像は二宮尊徳だったという。
2009年に小田原の尊徳記念館を訪問。宮尊徳の影響力は大きい。まな弟子七十人、その弟子七百人。四大弟子の一人は参議院議員になり、その息子二人は文部大臣。
私は多摩大学の「立志人物伝」という講義で「修養・鍛錬・研鑽」をテーマとた時に、安岡正篤、二宮尊徳、野口英世、新渡戸稲造、サトウハチローを取り上げて、映像や音声も含めて紹介した。終了後のアンケートをみると、圧倒的に二宮尊徳への共感が大きいのに驚いた。今なお、二宮金次郎は健在なのだ。
二宮尊徳は、午前一時、二時に起きて夜明けまでの数時間を読書と著述にあて、その結果生涯の著述は全集36巻を数える。これは日本人の全集の中で最大規模だろう。
私が以前訪れた新渡戸稲造の記念館で、武士道は神道と仏教と儒教の混合体である、とした資料があり目が覚める思いをしたことがある。日本人は神道からは忍耐心、仏教からは慈悲心、儒教からは道徳心を学んだという説明だった。後に二宮尊徳の「神道ひと匙、儒仏半匙づつ」という言葉を知って、更に腑に落ちたことがある。尊徳の洞察に関感心した。森嶋通夫は「皇室は神道、政府は儒教、庶民は仏教。3つの倫理体系の伸縮的な組みわせが日本の発展に寄与した」と説明している。
尊徳の名言は多いが、「キュウリを植えればキュウリと別のものが収穫できると思うな。人は自分の植えたものを収穫するのである」を採ることにした。自分は何の種を植えようとしているのか。植えたものしか実らないのは当たり前だ。節約、分度、勉強。自分で自分を育てよ、それが尊徳の教えである。
日本人のよさは、二宮尊徳の一生に集約されている。日本の再建、再興を志すなら、現在の日本人は、二宮尊徳・金次郎に学ぶべきである。
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