見出し画像

「名言との対話」11月16日。田健治郎「内台一体」

田 健治郎(でん けんじろう、安政2年2月8日1855年3月25日)- 昭和5年(1930年11月16日)は、日本官僚政治家。

兵庫県丹波市出身。司法、警察畑を歩む。地方の県警部長を経て、後藤象二郎逓信大臣に見出され逓信省に入省。次官を経て関西鉄道社長。伊藤博文のすすめで衆議院議員に当選、貴族院議員に勅選される。山県有朋系の政治家として活動する。寺内正毅内閣の逓信大臣を経て、1919年には文官としてはじめ台湾総督をつとめ、法整備と文民統治の定着に尽力。「内台一体」の融合政策をとった。帰国後は山本権兵衛内閣の農商務大臣をへて、枢密顧問官。

田健治郎の生涯の軌跡を眺めると、上司の引き立てがあったことがわかる。後藤象二郎伊藤博文山県有朋らの大物政治家である。

また、この人は1906年から死去の寸前まで24年間にわたって詳細な日記を書いている。それは『田健次郎日記』として刊行されており、近代政治史上の重要な資料となっている。

この人の孫に田英夫がいる。ジャーナリストとして1962年から1968年までTBSテレビの「JNNニュースコープ」の初代キャスターとして国民的人気があった。歯切れのよい田英夫の言説は私もよく知っている。後に「ジャーナリストとして政治に参加します」とのスローガンで政界に入った。

日本初の植民地の台湾は、1895年から1945年まで50年にわたり日本の支配下にあった。台湾統治は、朝鮮統治と比べて、成功であったという評価になっている。

初代から総督は武官であった。樺山資紀桂太郎乃木希典児玉源太郎佐久間左馬太。安東貞美。明石元二郎。第4代の児玉総督までは、原住民の反乱に手を焼いている。明石元二郎総督の台湾への思い入れは強かった。

その明石の後任となり、1919年から1923年まで3年10カ月つとめたのが田健治郎である。文官総督の成功によって、以下文官が続く。内田嘉吉。伊澤多喜男。上山満之進。河村竹治。石塚英蔵。太田政弘。南弘。中川健蔵。そして、1936年9月以降は武官が三代続いている。

台湾はなかなか統治が難しく、当初は手を焼いている。児玉源太郎総督、後藤新平民生長官時代にようやく成功をおさめた。そして田健治郎という文官初の総督の「内台一体」方針のもとに近代化が進展し、その路線は日本が大陸に進出し、大東亜戦争に向かう頃まで続いている。それは、田健治郎とい文官総督の功績である。『田健治郎日記』を読んでみたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?