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「名言との対話」3月16日。京塚昌子「肝っ玉母さん」

京塚 昌子(きょうづか まさこ、1930年3月16日 - 1994年9月23日)は、東京都出身の女優。

高校卒業後、新派へ入団して研究生となる。川口松太郎に認められて、1955年「月夜鴉」で初めて主役を演じる。「離れ猪」「太夫さん」の演技で芸術祭奨励賞を受賞。

1959年(昭和34年)8月23日から1972年(昭和47年)2月6日まで放映されたTBSテレビ系列の東芝日曜劇場人気シリーズ『カミさんと私』で伊志井寛の相手役として人気を博す。1963年、東宝演劇部入りして、舞台「マイ・フェア・レディ」などに出演した。

1968年、石井ふく子プロデュース作品『肝っ玉かあさん』で、蕎麦屋を切り盛りするしっかり者で涙もろい母親役を好演した。『ありがとう』などでも母親役を演じ、1970年代のテレビ業界で、「日本を代表するお母さん役」と呼ばれ、「恰幅が良く、割烹着が似合う母親役」で絶大な人気を誇り、CMでも起用された。

数々の名母親役を誕生させてきた名プロデューサーの石井ふく子作品には欠かせない女優だった。11年間の闘病生活の後、亡くなったとき伊志井寛の娘であった石井ふく子は、「ママ(京塚)は年下なのに本当に私のお母さんのような存在だった」と惜しんでいる。

「徹子の部屋」には4回出演しており、その折に黒柳徹子から最大のタブーであった体重を聞かれ、「96キロ」と小さく耳打ちしたが、「まあ、96キロ」と黒柳から暴露されている。

京塚は母親役のイメージが強いが、若い頃はスレンダーな美人で私生活では数々の浮名を流したそうだ。またウイスキーを一晩で3本あけたこともある酒豪だった。体は柔らかかったとの証言もある。

「ありがとう」[

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「ありがとう」
石井ふく子は葬儀委員長を務め、「ママ(京塚)は年下なのに本当に私の母さんのような存在だった」

京塚昌子が残したのは、かっぽう着姿での笑顔と、なんといっても「肝っ玉かあさん」という言葉だろう。蕎麦屋を営みながら、日々襲ってくる様々の事件や苦難に負けずに乗り切っていく役だ。池内淳子の母親とも違って、少しおっちょこちょいだがしっかり者である代表的な日本の母親のイメージだ。

私には1000館近い人物記念館をめぐる中で、世の中で名を成している人は母親が偉かった人が多いとの感慨がある。「頼りにならない父だけど  母の苦労に報いたい」は、猪苗代の野口英世記念館の食堂に掲げてあった「野口英世」という演歌の歌詞である。偉い人の父親はいろいろだが、母親は総じて偉い場合が多いように思う。その母親が今の日本をつくったのだ。京塚昌子という女優は、日本の母親像の形成に貢献したといえるだろう。

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