「名言との対話」11月18日。木村荘八「とりのまちの見せものの このあはれさが かければ 予は死んでもよい」
木村 荘八(きむら しょうはち、1893年(明治26年)8月21日 - 1958年(昭和33年)11月18日)は、日本の洋画家、随筆家、版画家。
牛鍋チェーン店のいろは牛肉店を創立経営した木村荘平の妾腹の八男。1911年白馬会洋画研究所に入り、フュウザン会、生活社、草土社などの結成に参加。後期印象派などの新美術の紹介に努め、岸田劉生とともに大正期画壇で活躍した。その後 1922年からは春陽会会員。昭和に入ってからは新文展、日展の審査員。挿絵にも定評があり、樋口一葉『にごりえ』。永井荷風『 濹東綺譚』の挿絵などは近代挿絵史を飾る作品である。随筆家として『後期印象派論』『ロダンの芸術観』『ミケランジェロ』『東京の風俗』『東京繁昌記』など三十数冊の著書があり。邦楽評論家としても有名。主要作品『自画像』 (東京国立近代美術館) 、『パンの会』、『牛肉店帳場』。
2013年に東京ステーションギャラリーで改装記念の「木村荘八展」をみた。木村荘八は多芸多才な人だった。「本業は油絵」と言うのだが、洋画家、挿絵画家ばかりでなく、翻訳、文芸、風俗、演芸等にわたる執筆活動、そして新派演劇、映画の美術考証、小唄、三味線、、、。
「いろは牛肉店」をいくつも持っていた父親の実業家・木村荘平は複数の内妻を持ち、男子13人・女子17人を設けている。そして「学業は中学までで、後は店で修業か独立かを選ばせる」というのが子育ての方針だった。この30人の兄弟で名をなしたものは、荘八以外にも作家の荘十、映画監督の荘十二など、という説明には笑った。
荘八は永井荷風の朝日新聞連載小説「墨東奇談」の挿絵を担当し評価を受ける。このとき「オレのウンメイはこれで極まる」とその決意を語っている。樋口一葉の「にごりえ」の挿絵も荘八だった。友人は、岸田劉生、小杉放菴、中川一政など。この企画展では「自画像」が多かった。大佛次郎は木村荘八については、「しっかりしたデッサンの上に、生きた絵を書く人」と評している。
青空文庫で読める「東京の風俗」にある「わたしのこと」という自己紹介が面白い。「牛肉店いろはの支店を設置するに当つて、その主立つた店々に、管理人の名実を以って、婦人を置きました。これを「御新さん」といつた。その一人がぼくの生母です。ぼくはこの木村家(いろは)の第八番目に出生した男子といふわけで荘八の名をつけられ、父は荘平。、、、荘十一、荘十二、荘十三、、」。父親の荘平は豪傑だった。
「中川一政、山口蓬春諸君と同年です。、、俳優でいへば林長三郎、村田嘉久子等と同年の巳歳で、花柳章太郎が一つ歳下、中村時蔵が二つ歳下です。ぼく達の巳歳からもう一廻り上の巳歳が小杉さんで(放庵子)、小杉さんの更にもう一廻り上の巳歳がアンリ・マチスの歳になります」。
企画展では、「私は東京を呼吸して生きてゐると思います」、「東京のあらゆる角度を絵でかいて行くという一面は面白い」(「東京繁盛記」序文)、「とりのまちの見せものの このあはれさが かければ 予は死んでもよい」などの言葉が目についた。江戸っ子を自認する木村壮八は、自分が生き、自分そのものとなった「東京」を絵で残そうとしたのだろう。
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