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「名言との対話」。8月13日。下河辺淳「国土の上に絵を描くことはしても紙の上に文章を書くことはしない」

下河辺 淳(しもこうべ あつし、1923年9月30日 - 2016年8月13日)は、日本の都市計画家、建設官僚。享年92。

経済企画庁の総合開発局長、後に国土庁事務次官として日本の国土開発(「全国総合開発計画」の「一全総」から「五全総」まで「国土の均衡ある発展」をうたったすべての計画)を担った日本という国のプロデューサーだった人である。「ミスター全総」、「開発行政のドン」と呼ばれ、「御大」といわれるほどの影響力があった。

退任後、政府のシンクタンクである総合研究開発機構(NIRA)の理事長に就任、1992年からは東京海上研究所の理事長を務めた。1994年には国土審議会会長や国会等移転審議会委員なども歴任した。約1万4千キロの高速道路網や地方の工業拠点整備を進める新産業都市構想を打ち出した。

1995年から1996年には首相の諮問機関である阪神・淡路震災復興委員会の委員長を務めた。1995年の沖縄少女暴行事件、米軍用地強制使用を巡る代理署名問題など国と沖縄の対立時には、普天間飛行場返還でアメリカと合意した橋本内閣の密使として、太田昌秀知事との橋渡し役を担った。

本人が書いたものは少ないが、インタビューではなかなか味のある発言が多い。

あるインタビューでは、「新幹線より豪華列車でゆっくり旅」、「豪華なホテルよりお坊さんの話を聴けるお寺」が流行る、地方の時代を予言している。

阪神淡路大震災時直後の山根一真のインタビューでは、『予想せざる事態』ではなく、『免責される限界を超えた』とし、『踏み固めていく』しかない。『技術者が口にする確率論と、個人が経験する世界とのギャップが大きい』、と述べている。

別のシンポジウムの発言を読んだが、未来への示唆に富んでいる。

・人口問題:20世紀は日本の人口が四千万人から一億三千万人近くへと九千万人口が増えた時代だが、海の近くに全部住んでくれたため山が荒れなかった。九千万人を収容した大都市は刑務所のようになった。三千五百万人の巨大都市・東京は世界に例がない。また人口が四千万人まで減っていって人間と国土の関係が回復するだろう。

・情報化社会:仕草、化粧、言葉、音楽、画像、符号といった六つの情報メディアが、人間に備わっており、人間が発する情報と、自然が発する情報とで、会話が成り立っていた。しかし、自分で情報処理が殆どできない、か弱い人間になってしまった。人間が自分で情報をつくったり、感じたりすることが殆どできない。これから大問題になる。

高齢化社会:本が世界の中で一番良い国になる条件は、年寄りが増えること。歴史、伝統、自然、人間、を知り尽くした人がリーダーであるべき世紀が来る。「良く年寄りの意見を勉強しなさい」と言えるような高齢化社会。年寄りが少ない子どもの面倒をみる社会。高齢化社会というのはもっともっと明るく語られるべきだ。

日本開発構想研究所の『UEDレポート』の2017年夏号は、「下河辺淳とその時代を語るーー下河辺淳研究の勧め」だった。同時代の関係者が、下河辺を語り、下河辺について書いている。霞が関の神。キラキラ光る多面体。「自分のやることに絶対に二流があってはならない」、、など興味深い言葉が並んでいる。

下河辺の国土のグランドデザインの中心は、「国土軸」という考えだった。黒潮日本海流対馬海流にわかれる。それは日本の高速道路である。定住。大平総理の田園都市構想(梅棹忠夫座長)なども下河辺の発案だった。

読む中で「新全総については福士さんというすごい伯楽がいた」という発言を見かけた。JAL時代に上司の柴生田さんを通じて付き合いのあった福士先生のことだ。日航財団をつくるとき、「航空文明」という理念について示唆をもらったり、私が創刊編集長をつとめた広報誌で経済企画庁の星野事務次官を紹介してもらったりした。この方々からは下河辺伝説をよく聞いた。「下河辺淳アーカイブスが2008年に一般公開されている。下河辺淳は、ヘリコプターで日本全土をくまなく、数え切れないくらい、空から見て回っていたと、父から聞いたこともある。

冒頭の「描くのであり、書くことはしない」という意味は、国土の上に絵を描くことが自分の仕事であり、それを見てくれという決意を示す言葉と受け止めたい。作品がすべてであり、自分の作品の論評はしない主義だったのだろう。文芸や絵画などのクリエーターには同じ考えの人も多い。

作家の中野孝次を思いだした。「わが志・わが思想・わが願いはすべて、わが著作の中にあり。予は喜びも悲しみもすべて文学に託して生きたり。予を偲ぶ者あらば、予が著作を見よ。」(遺書。「ガン日記」より)。

富本憲吉には「陶工にとっては、その作品だけが墓であると思うべし」という言葉がある。「作品だけが墓である」には芸術家の覚悟がみえる。これほどの決意で作品に立ち向かっていたことに感銘を受ける。こういう厳しさは他の分野のトップの人たちにもみえる」。また私生活を明らかにしなかった俳優の渥美清なども同じ考だったのだろう。

以上は文芸、芸術、映像などの例だが、国土開発においても創造者を自認する下河辺は、解説は必要ないと考えていたのだ。下河辺淳はそういう気概で仕事に立ち向かったのだろう。


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