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「名言との対話」 6月25日。安川第五郎「至誠通天(至誠天に通ず)」

安川 第五郎(やすかわ だいごろう、1886年(明治19年)6月2日 - 1976年(昭和51年)6月25日)は、日本の実業家。

福岡県出身。安川財閥の創始者・安川敬一郎男爵の五男で、第五郎と命名された。東京帝国大学工科大学電気工学科卒業後、日立製作所での1年間の勤務、米国ウエスティングハウスでの研修を経て、安川電機を創業し社長。モーター電動機に事業特化して同社を大きく成長させた。九州電力会長、日本原子力発電初代社長、日本原子力研究所初代理事長、石炭庁長官、九州経済連合会初代会長、1964年東京オリンピック組織委員会会長などを歴任した。

『安川第五郎伝』と一緒に入手した『安川第五郎 遺稿と追想』(安川第五郎伝刊行会)という568ページの大著を読んだ。偉い人が亡くなった後にでる「追悼集」は、親しかった身近な人たちが本人について語るので、本当のところやその人らしいエピソードが読めるので、私はなるべく手に取るようにしている。

入学試験に二度落第した修猷館中学の同級生には、中野正剛や緒方竹虎がいる。ナンバースクールにも順位があったそうだ。一高(東京)、五高(熊本)、三高(京都)、二高(仙台)、四高(金沢)、六高(岡山)、七高(鹿児島)。一高では、夏目漱石に英語を学ぶ。校長には新渡戸稲造が着任している。名校長の新渡戸の終身講話は人気があった。私は新渡戸の著作の愛読者であるが、その内容を本人から聞くのであるから、一高生を感激させたであろうこ。

東京帝大を卒業後、日立製作所に入社したこともあって、電機製造が一生の仕事となった。1年後に退職し、退職後のアメリカではウェスティングハウス社で見習生として働いている。1915年、安川電機製作所を創業した時、妻の父からは「人選には相当意を用いよ」と注意されている。名経営者であった第五郎は、安川電機の創業だけでなく、財界、官界にも引っ張り出されれて、石炭庁長官、九州電力会長、九州経団連会長なども含め、数多くの公職をこなしている。

各界の追想では、徳の高い人、巧まざる人徳、いるだけで磁場を生ず、などの言葉が並んでいる。植村甲午郎は「産業界の事情を達観出来て私利私欲がない公正な発言をする人」と語っている。富永和郎は、偉大なる凡人、何ごとでも頼まれれば断らない、担がれる人という。兄・松本健次郎からは「朴訥で無頓着でどことなく垢抜けのせぬ風貌」といわれている。甥の一人は「走ったことなく、あわてたことなく、人からものを頼まれて断ったことなし」と述懐している。

安川第五郎の「事業は自分がもっている、あらゆる情熱と、心からの誠心誠意をもって最善を尽くす。それが、成功するかどうかは天命を待つだけである」、「事業に障害が出ても決して強行突破しない。必ず迂回作戦をとる。目標を失わないでいれば、急速に目標にはいかないが、結局はうまくいく」などは、この人らしい哲学だ。第五郎は、その人柄そのままに、90歳で眠るように生涯を閉じた。

1964年の東京オリンピックの組織委員長を引き受けた。このときは「人脈が政界以上に大変なところだ」として取り組み、成功させている。以後、1972年の冬季の札幌五輪は植村甲午郎経団連会長、1998年の冬季長野五輪は斎藤栄四郎 経団連会長という経済界から出るようになった。これは安川第五郎のつくった道筋である。

1964年10月10日の東京オリンピックの開会式の前日夜半は雨だったが、誠心を持って晴天になるようにと天に祈ると祈りが通じたのか、開会式当日は雲ひとつ無い快晴になった。以後、第五郎は揮毫を頼まれると「至誠通天」の四字だけを書くようになった。多くの仕事をした安川第五郎にとっても、オリンピックには持てるものを総動員した感慨深い仕事であっただろうと推察する。

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