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11月8日。 横山 隆一「忙しいときほど遊ぶ」

高知県高知市出身の漫画家、アニメーション作家。
母が西郷隆盛を好きだったことで隆一という名前がついた。 政治風刺漫画が主流だった1930年代日本の漫画界において、簡略な絵柄と明快なギャグによる欧米流の「ナンセンス漫画」を志向した若手グループ「新漫画派集団」を結成。そして戦中・戦後初期の漫画界をリードした。1936年、新聞連載の4コマ漫画「フクちゃん」が始まる。この連載は戦前戦後を通じ、およそ35年間、5534回に及んだ。いたずらっ子で勝手気ままなフクちゃんは日本中の人気者になった。始まった翌年の1938年には第1回児童文学賞を受賞。

NHKアーカイブスでは 「遊びも仕事も楽しくやるのが一番」と横山が頓知と遊びの精神で貫いた生き方を語っている。オモチャが好き。遊びの天才。収集物では、川端康成の胆石、歴代警視総監の指紋、植村直己の足のマメなどが変なものが紹介されている。この人は忙しい時ほど遊ぶのが信条のユーモリストであった。

画家への道もあったが、漫画は新しい時代の職業であると考え、職業漫画家の道を選ぶ。漫画とは「考えている絵だ」とする横山は「ナンセンス漫画」で世に出ようと志す。ナンセンス漫画の風刺は相手が気がつかなければ、単なるナンセンスにすぎない。しかし隠された小さな針に気がつく人だけが読者でいいとの思いだった。その実例をあげてみる。

手術の風景を描いた漫画と「お医者を怒らせたバカ「よし ますいなしで手術しよう」の言葉。首つり自殺をしようとする漫画と「失敗したときの予備もつくるバカ」の言葉。海で水かけをする男女の漫画と「たのしく大腸菌をかけあうバカ」という言葉。、

1960年の「漫画家酒豪番付」では、土佐高知出身の横山は東の横綱に位置づけられている。大関は加藤芳郎、前頭に手塚治虫、富永一郎、おおば比呂司の名がみえる。2002年には、郷里の高知に「横山隆一記念まんが館」がオープンしたのだが、残念なことに本人はその前年に亡くなった。

1997年発刊の自伝『横山隆一 わが遊戯的人生』の最後は、大いに共感する言葉で締めくくられている。「しかし、そろそろ自分を考えて、独り歩きをしながら自分を創らなければならない年になりました。、、海岸でせっせと砂でお城を作って遊んでいるようなものです。しかし、波が来て、すべてが流れ去った時、貝がらをみがいて作ったお城の瓦の一片を誰かに拾われて、捨てるのもおしいなと思われるような作品を作ることを画業にしたいと思っております」。そうだ、後に遺る作品を作らなければならない。

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