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「名言との対話」8月14日。ゴーマン美智子「疲労を乗り越えて、ある日突然自分の身体が一段上にシフトされるのが感じられるのだ」

ゴーマン美智子(ゴーマンみちこ、英名:Miki Suwa Gorman 、旧名:諏訪美智子、1935年8月14日 - 2015年9月19日)は日本出身でアメリカ在住の女子マラソン選手。

中国の青島(チンタオ)で生まれ、東京育ち。28歳で学生ビザで渡米という遅い出発だった。いくつかの家庭で過ごす。「自由と独立」が美智子の希望だった。いくつかの条件の良い申し出を断っている。「たった一度の人生ではないか。思う存分自分で開拓できないでどうする」。「最も退屈する男は人の造ったポリシーの中にちんまりと坐って自分の意見も持たず手も足も出ない男である」。

『走れ!ミキ ゴーマン美智子』(文春文庫)を読んだ。

マラソンに入るきっかけは、夫のマイクが「あーあ、君がもう少しフランシーのようにアスレチックだたら良かったのになあ」だった。その言葉で美智子は頭をむっくりと持ち上げる。後に世界記録保持者になるジャクリーン・ハンセンの指導者のマラソンコーチに師事する。38歳だった。ハンセンに、「まあ驚いた! 自殺するつもりなの!?」 と言われた。そこで負けん気が立ち上がってくる。

1973年12月3日のウェスタン・ヘミスフィアマラソン(現カルバーシティ・マラソン)で非公認世界記録]となる2時間46分36秒のタイムで優勝、ジャクリーン・ハンセンに土をつける。4ヶ月後の1974年4月、38歳でボストンマラソンで2時間47分11秒で優勝、同マラソンでは1976年に2位、1977年には2度目の優勝を果たした。ニューヨークシティマラソンでも1976年(41歳時)、1977年(42歳時)と2連覇している。この二つのマラソンを同一年に制したのは他に1人しかいない。また、日本出身の女子選手としてこの2つのレースに優勝したランナーは彼女のみである。

その美智子にして40歳まじかになって子宝に恵まれる。乳を含ませるとき、「世界記録よりも、ボストンの優勝よりも、何よりも女として、最も幸せなひととき」と感じている。そして出産後、1ヶ月後から走り始めて、カムバックを果たしていく。

少女時代を過ごした南会津町では功績を称え、1986年からゴーマン杯ふるさと健康マラソン大会(現在はゴーマン杯南会津町ふるさと健康マラソン大会)が開催されている。

ゴーマン美智子の名前は知っていたが、152センチ、40キロの女性がマラソン選手として成長していく物語を読んで尊敬の念を覚えた。女子マラソンの世界を切り拓いた人である。第1回東京国際女子マラソンへ招待されている。日本女子マラソンにも影響を与えた人である。

「何かしなくてはならない或る地点に来て、たまたまランニングが与えられ、それが私に適していただけ」というが、「あれだけのトレーニングを積むことが出来るか、出来ないかが問題なのだ」と猛練習を積む。そして、「人間の身体は面白いものだ。外部から与えられた刺激を見事に消化して、徐々に調整されて行くものである」と会得し、「疲労を乗り越えて、ある日突然自分の身体が一段上にシフトされるのが感じられる」との実感のこもった言葉を語っている。何かをやり抜いた人の言葉はやはり重い。

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