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「名言との対話」 3月26日。室生犀星「ふるさとは遠きにありて思ふもの  そして悲しくうたふもの  帰るところにあるまじや」

室生 犀星(むろう さいせい、本名: 室生 照道〈てるみち〉、1889年〈明治22年〉8月1日 - 1962年〈昭和37年〉3月26日)は、石川県金沢市生まれの詩人・小説家。

私生児として生まれ、実の両親の顔を見ることもなく、生まれてすぐに養子に出された。高等小学校を中退し、12歳で働き始める。文学を志し20歳で上京し、以後東京と金沢を往復する。北原白秋に認められ白秋主宰の詩集『朱欒(ざんぼあ)』に寄稿。同じく寄稿していた萩原朔太郎と親交をもつ。この二人は無名時代からの親友だった。

「愛の詩集」「抒情小曲集」などの抒情詩は詩壇を牽引した。30代からは小説に転じる。初期は「幼年時代」「性に目覚める頃」を書き、そして「あにいもうと」「かげろふの日記遺文」「密のあはれ」などがある。随筆、童話、俳句にもすぐれた作品がある。

1935年に「あにいもうと」で文芸懇話会賞を受賞。1941年に菊池寛賞。1958年の半自叙伝的な長編『杏っ子』は読売文学賞を、同年の評論『わが愛する詩人の伝記』で毎日出版文化賞を受賞。古典を基にした『かげろふの日記遺文』、1959年で野間文芸賞を受賞した。この賞金から翌年、室生犀星詩人賞を創設している。

犀星という筆名は、犀川の西に生まれ育ったことからつけたものだ。「美しき川は流れたり そのほとりに我はすみぬ 春は春、なつはなつの 花つける堤に坐りて こまやけき木の情けと愛とを知りぬ いまもその川のながれ 美しき微風ととも 蒼き波たあてぇたり」。犀星が育った雨宝院は犀川左岸にあり、犀星はこの川の風情と、上流に見える山々の景色とを愛した。小さな命、弱いものへの慈しみにあふれた作品が多い。私生児だった犀星は、後に「夏の日の匹婦の腹に生まれけり」という句を詠んでいる。

2005年に軽井沢に別荘を持っていた文人の記念館を訪ねた時に、室生犀星旧居を訪ねたことがある。2007年以降、何度か金沢を訪問することがあり、金沢三文豪と呼ばれる泉鏡花記念館、徳田秋声記念館、そして室生犀星記念館を堪能した。犀星の生家跡に立つ記念館は2002年8月1日に開館している。この日は犀星の誕生日だった。

2016年に前橋の萩原朔太郎記念館で、前橋文学館が編集した「萩原朔太郎・室生犀星の交流」という小冊子を読んで、二人の飾らない交流がわかった。朔太郎は「「犀星といふ男は真に不思議な恵まれた男であり、生まれながら文学の神様に寵愛されたやうな人間である」と言い、犀星は「萩原と遊ぶとセンチメンタルといふ言葉を常に新しく感ずるとは不思議なり」と語っている。

「私をすくうてくれた女の人は、悉くはたらく場所にいた人達である」「 永く生きて来て気のつくことは此の生き抜く以外に何もないことなのだ」

「われ張りつめた氷を愛す、かかる切なき思いを愛す、われその虹のごとく輝けるを見たり、かかる花にあらざる花を愛す、われ氷の奥にあるものに同感す、その剣のごときもののなかにある熱情を感ず、われはつねに狭小なる人生に住めり、その人生の荒涼のなかに呻吟せり、さればこそ張りつめたる氷を愛す、かかる切なき思いを愛す」である。これは犀星の座右の銘だ。

「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの 帰るところにあるまじや」は人口に膾炙した詩の冒頭である。「よしや うらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ そのこころもて 遠きみやこにかへらばや 遠き都にかへらばや」と続く。

地方から東京にでた無数の人々がこの詩で慰められたであろう。しかし、故郷には居場所はすでにないのだ。長淵剛の歌「とんぼ」では故郷を離れ、「死にたいくらに憧れた 花の都 大東京」に出たが、それが「東京のバカヤロー」に変わっていく。もう故郷には帰れない。私もカラオケで聞いていると涙が出てくる。犀星も同じ心境だったのだろう。

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