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「名言との対話」6月1日。清水安三「神はこの石ころのような劣等生に清水安三すらもなお同志社の創立者新島襄となしうる」

清水 安三(しみず やすぞう、1891年6月1日 - 1988年1月17日)は、教育者・牧師。桜美林学園創立者

滋賀県高島市出身。生家の近くに陽明学中江藤樹の家があり、「将来は中江藤樹のような人になりたい」と憧れていた。同志社大学神学部に進学し、新島襄に強い影響を受ける。渡米し、後の桜美林大学の名前ともなったオベリン大学に学ぶ。

同志社大学卒業後、1917年に中国・大連へ渡り、布教活動を開始。翌年には奉天に移り児童園を設置。1920年に北京へ移り、貧困に喘ぐ女子を対象とする実務教育機関・崇貞平民工読学校を朝陽門外に開校(翌年崇貞女子学園に1938年に崇貞学園と改名)。その後、小学校や中学校を併設し、中国人のみならず在華日本人にも門戸を広げた。また、愛隣館という救済院も作り、「北京の聖人」と呼ばれた。魯迅や周作人と親交を持った。この間、北京大学で特別講師となったバートランド・ラッセルの教育哲学に傾倒している。

敗戦で帰国。文化サロンだった新宿中村屋にも出入りしている。加賀豊彦と知り合い、後妻の清水郁子とともに東京郊の町田に「キリスト教主義に基づいた国際的な教養人の育成」を建学の精神とする桜美林学園を創立する。加賀豊彦は学園の初代理事長となった。

桜美林は現在では幼稚園、中学校、高等学校、大学、大学院を持つようになり、1万人を超える生徒、学生を擁している。「隣人に寄り添う心」「どんな艱難にあっても希望の光を灯し続ける心を育てる」ことを教育方針としている。 学園のモットー「学而事人」は、学んだことを通して、人に仕える人となるという意味である。これはジャン=フレディック・オベリンが提唱した「Learning and Labor」の思想に基づいた考え方だ。

『石ころの生涯』という伝記を読んだ。自分は路傍に転がっている石ころに過ぎないが、努力次第で新島襄のようになれると考えていたことを表している。歌人としての雅号は「如石」である。

「夢を見よ夢は必ずなるものぞ、うそと思はば甲子園にきけ」

「大学の設立こそは少き日の新島襄に享けし夢かも」

「我が霊や 天に昇らで 永えに 留まるべきそ 桜の園に」(辞世の歌)

桜美林大学は多摩大の近隣にあるので、私も交流があった。

2010年に桜美林大学多摩アカデミーヒルズの開所式に学長の代理で出席したことがある。厚生事業団を所有していたウェルサンピアを桜美林が購入し、国際交流などを中心とする施設として活用することになったもので、宿泊は66室有り135名が泊まれる。研修室は13室。レストランや、アスレチック施設もある立派な施設だ。三谷宗務部長の講話と佐藤東洋士理事長の挨拶が印象に残った。聖書の言葉、建学の精神、創立者清水安三、、、、。祝賀会を途中で退席したが、おみやげにもらった『清水安三・石ころの生涯』を往復の電車の中で読了した。故人の著書、論文、エッセイ、説教、式辞などを編集したものだが、教育というものの崇高さを改めて感じた。

2011年。多摩市関連大学学長意見交換会。多摩センターの桜美林大学アカデミーヒルズ。多摩市長の主催で、行政と大学の連携がテーマだった。

2017年。日本私立大学協会・教育学術研究委員会に出席。テーマ「私立大学の将来像」。佐藤東洋士(桜美林大学総長)「高等教育の未来を拓く私立大学」を聞く。

2018年。清水安三誕生の地を訪ねた。清水は新旭町の名誉町民で、清水安三育英基金も設置している。「約され器にあれど 聖たれ聖たれよと聲うちに聞く」、と清水安三は67歳の時に詠んだ歌が生誕の地の石碑に刻まれている。中江藤樹を師と仰ぎ、粗衣粗食して聖人の道に励んだのだ。中江藤樹清水安三に影響を与え、その影響力が桜美林大学をつくった。その大学で多くの若人が学んでいる。ここにも一人の人物の影響力の大きさを感じる

2018年。多摩未来創造フォーラムが玉川大学にて行われ参加した。桜美林の畑山学長は、「国際線パイロット育成事業」と「留学生7%。国際化とキャンパス拠点化」 を語っている。

2019年。八王子市の「大学理事長・市長との懇談会」。多摩市長との懇親会。に桜美林大学の畑山学長と懇談。

清水安三は、学ぶ人だったように思う。幼少期以来、中江藤樹新島襄魯迅ラッセル、オベリン、加賀豊彦など、人に感激し、人から学び続けた人なのだ。路傍に散らかっている石ころのような小さな自分を自覚する自分、しかし新島襄のような大なるものにならんとする自分、その両方が清水安三の事業を成功させたのだ。


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