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「名言との対話」8月10日。山田忠雄「盗めるものなら盗んで見よ」

山田 忠雄(やまだ ただお、1916年8月10日 - 1996年2月6日)は、日本の国語学者、辞書編纂者。

1936年東京帝国大学文学部国文科で学び、卒業後岩手県師範学校に赴任、在職中に『明解国語辞典』を見坊豪紀とともに編纂する。1943年に『明解国語辞典』が刊行される。1946年、日本大学文理学部国文学科助教授に就任し、教授となる。古語の専門家であったのだが、「大学教員をやっていたら、時間が奪われて自分の研究ができなおい」と42歳で辞職し辞書作りに没頭していく。1972年に出版された『新明解国語辞典』の編集主幹を務め、見坊豪紀の『三省堂国語辞典』(三国)と袂を分かつ。山田の『新明国』は、従来の国語辞典の概念を超える「新鮮さ」と「鋭さ」と「面白さ」があった。

大学の同期の見坊豪紀は、『明解国語辞典』(三省堂)の編纂に関わる。岩手大学教授、国立国語研究所で仕事をする。1960年、『三省堂国語辞典』(三省堂)を刊行。『三省堂国語辞典』は、「同時代語の辞書」という点で画期的であった。1972年山田忠雄と袂を分かつ。山田は『新明解』、見坊は『三国』を担うことになる。見坊は『三省堂国語辞典』初版刊行と同時に、現代日本語の実例を採集する作業をより本格化させた。見坊が重視したのは、現代語の変化を素早く映し出す「鏡」と手本という意味での「鑑」であった。1968年、国語研究所を退職。以後、現代日本語の用例採集と辞書編集に専念した。採集カードは実に人間わざとは思えない約145万枚に達した。

この二人の関係と辞書の歴史を追った佐々木健一「辞書になった男 ケンボー先生と山田先生」 (文春文庫)という本を読んだ。

天才・見坊豪紀と鬼才・山田忠雄の訣別の謎を探った本である。「新明解」は「主観的」で、時に長文・詳細な解説がある。「三国」は「客観的」で「現代的」、「短文・簡潔」な解説である。そこには二人の言語観・辞書観が反映されている。

「ば」という語の用例をケンボー先生は、こう記す。「山田といえば、このごろあわないな」。山田という個人名が使われている。一方、山田先生の辞書で、「ごたごた」の語例を引くと、「そんなことでごたごたして、結局、別れることになったんだと思います」。二人は辞書内で会話をしているのだ。

三浦しをん「舟を編む」(光文社)を読んだことがある。15年という歳月を費やして辞書編集に携わった志ある人々の愛と友情と人生の豊かな物語だ。完成後。「俺たちは舟を編んだ。太古から未来へと綿々とつながるひとの魂を乗せ、豊穣なる言葉の大海をゆく舟を」。人間世界という大いなる海を棹さしていくのを助ける乗物が辞書である。このモデルは岩波書店であったから、チームワークの素晴らしさが描かれている。

その舟を編むことをライフワークにする二人はともに独力で立ち向かったのである。この「辞書になった男 ケンボー先生と山田先生」は国語辞典の編集を巡る二人の協力と確執を描いた、すぐれたノンフィクションだった。日本エッセイスト・クラブ賞受賞を受賞をしたのもうなづける作品であった。

「新明解」では、「凡人」は「自らを高める努力を怠ったり功名心を持ち合わせなかったりして、他に対する影響力が皆無のまま一生を終える人。(マイホーム主義から脱することの出来ない大多数の庶民の意にも用いられる)と、ぐうの音もでない凡人論で苦笑せざるを得ない。言い過ぎのような気もするが、偉人とは影響力の大きな人という定義を持っている私は「影響力」という言葉を使っていることは嬉しくなった。

山田は、盗用と切り貼りだらけの辞書界に挑戦するために、「新明解」で書きすぎというくらに主観をも交えて説明している。「盗めるものなら盗んでみよ」という気概がその仕事を支えた。「言葉とは不自由な伝達手段である」という言語観であり、「辞書は文明批評」ともいう山田は、辞書に人格を持ちこんだのだ。「新明解」は危険な辞書でもあった。井上ひさしが「非凡の人が非常の生活を行ってはじめて成るのが辞典というもの」と語っている。山田はまさに非凡で非常な人であった。山田は辞書に成ったのである。

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