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「名言との対話」 3月15日。堀口大学「日本語の美しさが身にしみる」

堀口 大學(ほりぐち だいがく、新字体:堀口 大学、1892年(明治25年)1月8日 - 1981年(昭和56年)3月15日)は、明治から昭和にかけての詩人、歌人、フランス文学者。

東京・本郷生れ。 大學という名前は出生時に父が帝大の学生であったことなどに由来。創作詩作や、訳詩集の名翻訳により、昭和の詩壇、文壇に多大な影響を与えた。1970年文化功労者。1979年文化勲章受章。

17歳。与謝野鉄幹・晶子の「新詩社」に入り、生涯の友・佐藤春夫と出会う。一高入試に2人とも失敗し、永井荷風が文学部長をつとめており、小山内薫、野口米次郎、戸川秋骨らが教授陣いた慶応義塾大学文学部に一緒に入る。外交官の父から任地に呼ばれて慶應を中退し、メキシコ、ベルギー、スペイン、スイス、パリ、ブラジル、ルーマニアと、19歳から33歳までの青春期を日本と海外の間を往復して過ごす。画家のマリーローランサンや詩人のジャン・コクトーらとの交友があった。

ブラジルにいた1919年に創作詩集『月光とピエロ』を出し、帰国後の1925年には佐藤春夫に献辞を捧げた訳詩集『月下の一群』を刊行する。甘美な作風で、中原中也や三好達治など若い文学者たちに多大な影響を与えた。

「私の耳は貝の殻 海の響をなつかしむ」。「雨の日は、雨を愛そう、風の日は、風を好もう、晴れた日は、散歩しよう、貧しくば、心に富もう」

官能的な詩も多い。「拷問」というタイトルの詩、「お前の足元にひざまいて 何と拷問がやさしいことだ 愛する女よ 残酷であれ お前の曲線は私を息詰まらせる ああ 幸福に私は死にそうだ」。「帯」というタイトルの詩、「白鳥の歌は 死ぬ時。花火のひとみは 消える時。あなたの帯は 解ける時」。

1935年には島崎藤村が会長の日本ペンクラブの副会長に推される。堀口大学はの仕事は作詩、作歌にとどまらず、評論、エッセイ、随筆、研究、翻訳と多方面に及び、生涯に刊行された著訳書は、実に300点を超えている。堀口大學全集 全9巻+補巻3+別巻1 が1981年-88年に刊行され、日本図書センターが2001年に復刻している。

10代から1964年に佐藤が亡くなるまで堀口と佐藤の二人の友情は続いた。堀口は友人代表で以下の挽歌を捧げている。

忽焉と詩の天馬ぞ神去りつ何を悲しみ何を怒るか 死に顔といふにはあらずわが友は生けるがままに目を閉じてゐぬ 愛弟の秋雄の君の待つ方へ亡ぶる日なき次元の方へ 行きて待てシャム兄弟の片われはしばしこの世の業はたし行く また会ふ日あらば必ずまづ告げん友に逝かるる友の嘆きを

同い年の佐藤春夫は、二人を一卵性双生児と書き、挽歌で堀口大学はシャム兄弟と詠った。佐藤春夫の死から17年後に堀口は89歳で亡くなるのだが、NHK「あの人に会いたい」の最晩年の映像では、「日本語の美しさが本当に身に染みる」と語っている。外国語に堪能であった堀口大学は、翻訳を通じて日本語の美しさにほれ込み、そしてその美しさをさらに高めた人である。


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