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「名言との対話」2月8日。樺山資紀「何事か娯しみに非ざる」

樺山 資紀(かばやま すけのり、天保8年11月12日1837年12月9日) - 大正11年(1922年2月8日)は、日本海軍軍人政治家。

鹿児島市出身。薩英戦争。鳥羽・伏見の戦、会津戦争に従軍。陸軍に入り、清国との漂流琉球漁民殺害事件の交渉にあたる。台湾出兵の従軍。明治10年西南戦争では熊本鎮台参謀長として奮戦。

その後、近衛幕僚参謀長、海軍次官西郷従道大山巌海軍大臣のもとで海軍次官。。明治23年以降は、山県内閣・松方内閣の海軍大臣となった。翌年に海軍拡張案が否決されると「蛮勇演説」を行って衆議院の解散となる。日清戦争では海軍軍令部長明治28年に台湾総督(初代)。帰国後は、内務大臣、文部大臣を歴任した。

有名な「蛮勇演説」を行った人である。「薩長政府トカ何政府トカ言ッテモ、今日国ノ此安寧ヲ保チ、四千万ノ生霊ニ関係セズ、安全保ッタト云フコトハ、誰ノ功デアル」と薩長藩閥政府の正当性を主張した。

司馬遼太郎が好著とした伊藤潔「台湾--400年の歴史と展望」(中公新書)を読んだとき、樺山の名前をみた。50年に及ぶ日本による台湾の植民地時代で19人の総督が赴任した。第4代総督の児玉源太郎後藤新平民政長官が赴任した1898年から1905年度にかけて、台湾の財政独立を実現した功績は大きい。歴代総督には樺山資紀白洲正子の祖父)、明石元二郎、田健次郎(田英夫の祖父)らの名前がみえる。樺山資紀白洲正子の祖父である。

小田急線の鶴川という駅から歩いて15分ほどのところに旧白洲邸武相荘がある。白洲次郎白洲正子の旧宅が記念館になっている。2006年5月以降、何度か訪れている。ここに、正子の祖父で明治の元勲の一人・樺山資紀の「何事か娯しみに非ざる」という書があったことを覚えている。政治の第一線から引退した後は、郷土出身の子弟の教育事業などに尽力している。白洲正子の子ども時代に祖父の膝の上に載っている写真がある。この人が薩長側の本音を吐露したあの「蛮勇演説」の人だったのだ。

祖父は偉い人だったらしいが、自分にはやさしいおじいさんだったという正子の述懐を読んだことがある。孫の正子の描く樺山像は地味で静かな老人だが、晩年には、どんなことも楽しみに変えて毎日を過ごすことができるという心境だったのだろうと推察する。

樺山資紀は、幾多の戦争をくぐり抜け、政府の要職をつとめて、伯爵となり明治の元勲になった。近代明治国家をつくり上げた一人である。そしてその孫娘は、日本の古典の世界で現代の一角を築ていく。。


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