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11月28日。進藤一馬「桜を残すことはできんやろか」

進藤 一馬(しんとう かずま、1904年(明治37年)1月1日 - 1992年(平成4年)11月28日)は、日本の昭和期の右翼活動家、政治家、戦後の衆議院議員、福岡市市長。

父は玄洋社の創立者の一人である旧福岡藩士・進藤喜平太。旧制福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)、早稲田大学政治経済学部卒業。1929年、中野正剛の秘書となり、1933年に中野が結成した東方会に入会し総務部長となる。その後、九州日報社(現・西日本新聞社)取締役を経て1944年10月、第10代玄洋社社長に就任し、1946年にGHQにより解散させられるまで社長を務めた。1958年に自由民主党公認で福岡県第1区より出馬し当選。通商産業・法務各政務次官を務めたのち、1972年に福岡市長選に出馬し当選し第25代福岡市長に就任。4期当選したが、任期途中の1986年11月8日に健康上の理由により辞職、引退した。 政界引退後、玄洋社記念館長を務めた。享年88。

2006年に、玄洋社記念館を訪ねた。この時、館長が玄洋社発祥の地に連れて行ってくれた。今はNTTドコモ九州ビルの一角に「玄洋社跡」という碑が建っている。そこからさほど遠くないビルの2階に記念館はあった。玄洋社は「皇室を敬載すべし」「本国を愛重すべし」「人民の権利を固守すべし」との三原則を基幹とした政治結社である。商法制以前、「社」は志を同じくする人間が集まって研鑽をはかる士族の結社という意味を持っていた。佐賀の大隈記念館で大隈外相を襲い条約改正を葬った来島恒喜が玄洋社社員だったことを思い出した。玄洋社は、自由民権運動、憲法の新設、国会の開設、祖国の国力伸張に奔走する。また屈辱的外交条約の破棄、アジア主義に基づくアジア民族の自決独立の援助を行う。孫文を助けるなど中国革命における玄洋社の存在は大きく第二次世界大戦終了直後まで日中平和工作を継続していた。記念館入り口の写真や関係者の名簿に度肝を抜かれた。頭山満、広田弘毅、中野正剛、緒方竹虎、などそうそうたる人材を輩出している。進藤一馬の名前もあった。

それから10年後の2016年に、 福岡市美術館で開催中のモネ展を観た。美術館の近くに「落日燃ゆ」の主人公。広田弘毅像があり、また美術館の前庭に進藤一馬像が建っている。碑には文化行政に功績があったという説明があった。1972年から10数年、福岡市長だった進藤一馬の名前は、当時九州大学の学生だった時に知っていた。進藤は訪欧した折には「ムッソリーニは非常にきさくで体格のいい親しみのあるおじさん、ヒトラーは物静かで知性的な態度であった」という感想を残している。

土居善胤「花守り 進藤市長殿 花あわれ せめては あと二旬 ついの開花をゆるし給え」という歌が新聞に載ったことから始まり、道路拡張工事で切られる予定だった桜の木が紆余曲折を経て、進藤市長が保存を決めた。この桜の木がある公園の石碑には、土居の歌と並んで「桜花惜しむ 大和心のうるわしや とわに匂わん 花の心は  香瑞麻」という進藤の句が刻まれている。香瑞麻は「かずま」、進藤の雅号で、多くの色紙や短冊を目にした進藤が、土居の歌への返歌として木に掲げた句であった。この話は「リーダーズ・ダイジェスト」誌や小学校の道徳副読本にも掲載された。

これがきっかけで福岡市民たちは進藤を「花守り市長」と呼んだ。「文化行政に功績があった」というのは、このエピソードに代表される進藤一馬の市長時代を総括したのだろう。一つのエピソードが、一人の人物の全体像をあらわすことがある。進藤一馬はこのエピソードで、人々の記憶に残った。

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