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「名言との対話」5月17日。近藤勇「薩摩の初太刀をはずせ」

近藤 勇(こんどう いさみ、天保5年10月5日1834年11月5日〉- 慶応4年4月25日1868年5月17日〉)は、江戸時代末期の武士新選組局長。享年33。

東京都調布市出身。天然理心流宗家四代目を主命。1863年、14代将軍・徳川家茂の上洛警護の浪組に参加。京都で浪士組を発案した清河八郎尊王攘夷の真意を知り、離脱。京都守護職となっ松平容保会津藩図預かりとなり、壬生浪隊を結成する。新選組の隊名を下賜される。近藤は、新見錦、田中伊織、芹沢鴨らを暗殺、自殺させ、近藤主導の体制を築く。

八月十八日の政変により、誕生した一橋慶喜松平容保会津藩主・松平定敬桑名藩主)の「一会桑政権」の一翼を担う。1864年7月8日、勤王派が集う池田屋に突入し、新選組の名を挙げ、全員が幕臣となる。

鳥羽伏見の戦い幕府軍が破れる。近藤は幕府から「甲陽深鎮撫」を命じられる。板垣退助の迅衝隊との甲州勝沼の戦いで敗れて敗走する。新政府軍との流山で、近藤は捕縛される。変名を名乗ったが、見破られ、斬首され、京都三条河原でさらされる。

近藤勇については、盟友で副長の土方歳三とともに、小説やテレビなどでよく取り上げられていること、日野市の新選組隊士の記念館などでよく知っている。

池田屋事件で勤王の志士たちを襲ったこと、仲間の暗殺を繰り返した非情の人、容貌も恐ろしげという印象を持ってた。豪胆で沈着な武士だった。近藤勇三国志演義の豪傑・関羽に憧れている。また加藤清正を尊敬していた。ところが近藤に会っている渋沢栄一によれば、穏当な人物で、事理の解る人であったと観察している。ただ、近藤は薩摩を嫌いで、薩摩人に対しては過激な言動をとっていたと述べている。

捕縛された近藤の処分をめぐって、土佐藩薩摩藩の意見の相違があったらしい。穏やかな処分を主張する薩摩藩を説き伏せ、斬首に決めたのは土佐藩谷干城であった。ここで思い出すのは、西郷隆盛佐幕派庄内藩に寛容な処置を行って感謝されたこと、新政府軍の黒田清隆が函館五稜郭に立てこもった敵将の榎本武揚の助命に命を懸けたぉことだ。

「薩摩の初太刀をはずせ」と、薩摩示現流の威力を知っていた近藤勇は薩摩嫌いであったが、意外なことに薩摩人は寛容であったのだ。この辺りは、もう少し調べたい。

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