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「名言との対話」2月5日。安宅弥吉「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」

安宅 弥吉(あたか やきち、1873年4月25日 - 1949年2月5日)は、石川県金沢市生まれの実業家

石川県金沢の金石出身。父は金融業、肥料などを扱う有力な商人だった。幕末に加賀藩で活躍し藩の財政に大きな貢献をした豪商の銭屋五兵衛江の伝記を読み、大商人になろうと考え、16歳で上京し東京高等商業(一橋大)へ進学する。

卒業後、日下部 商会に入社し、香港 支店支配人に就任。1904年に百三十銀行破綻の影響で危機に陥ったこの商会の営業を継承して安宅商会を設立した。取引商品種目は多数に及んだが、とくに1926年に八幡 製鉄の指定商の一つになることによって、鉄鋼業界への飛躍の基盤をつくった。大正から昭和にかけての18年間大阪商工会議所副会頭、会頭を務め、1939年には貴族院議員となった。学校法人甲南女子学園の創設者でもある。

商売については、安宅は若者たちに「いつもはヘイヘイ言っているが、ここというところでガンとやっつける。君たちのやり方はガンガンガンのヘイで、これはあかん」と語っている。ヘイとは相手の言い分を聞き入れることで、ガンとは自身の主張を通すことだ。安宅のやり方は「世の中すべてヘイ、ヘイ、ヘイのガンでやれ」であった。相手に大きく譲りながら、自分の言い分を通していくのが商売の極意ということだろう。

安宅弥吉の死から四半世紀たって日本十大商社の一角を占めていた安宅産業は経営危機に陥り、1977年に伊藤忠商事救済合併されてしまう。私も就職して数年たったころであり、日本中が大騒ぎになったことを覚えている。その時、初めて安宅弥吉の名前を知った。これを知ったら弥吉は無念に思っただろう。今でも残っているのは会長だった息子の安宅英一がつくりあげた1000点に及ぶ美術品の「安宅コレクション」だ。中国陶磁、韓国陶磁、速水御舟の3本柱でできていた。日本のものは浜田庄司の作品が多い。安宅産業を吸収合併した住友グループ21社から寄贈されたことを記念して大阪市が設立したもので、1982年に開館している。

私は2020年に訪問した。韓国陶磁の李秉昌コレクション、沖正一郎コレクションが展示されていた。国宝「油滴天目」茶碗をみた。内外の油滴は釉薬の中の鉄分が結晶したもので、油滴天目の国宝はこれのみだ。油滴のきらめきが素晴らしかった。豊臣秀次西本願寺、三井家、若狭酒井家、安宅産業へと所有者が移り、最後はこの美術館の所蔵となった。

東京高等商業時代、東京本郷にあった石川県出身者のための久徴館で、鈴木梅太郎(のちの大拙)と出会う。「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束したとされる。「君は学問の道を貫き給え、私は商売に専念して一生、君を支える」と言ったという資料もある。弥吉は大拙より3つ年下だったから、「君」の方が正しいかもしれない。あるいはこのエピソードは後の語り草だったから、違う表現だったかも知れない。

弥吉は大拙の根拠地となった鎌倉の松ヶ丘文庫の設立にも尽力した。文庫の入り口には、「自庵」(安宅の居士号)と題した頌徳碑があり、「財団法人松ヶ岡文庫設立の基礎は君の援助によるもの」と刻まれている。君とは安宅弥吉を指している。居士号とは在家でありながら優れた仏教修行者に与えれれる号で、大拙も居士号であり、大拙の親友・西田幾多郎は寸心である。この対比も面白い。鎌倉の東慶寺には、安宅弥吉、鈴木大拙西田幾多郎、そして大拙を師と仰いだ出光佐三も眠っている。

安宅弥吉は大正から昭和にかけて大阪の経済界の発展に尽くした。またその財力で友人の鈴木大拙が仏教、禅の世界的学者になるために生涯にわたって支援を行い、そして安宅コレクションも残った。「世人の信を受くるべし」と言った銭屋五兵衛の言の通りの生き方のように思える。近現代の日本の文化への貢献も大きいものがある。


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