「名言との対話」3月7日。小宮豊隆「先生によって纏められてゐた木曜会の世界は、五色の雲に包まれた、極楽浄土の世界だったやうな気がする」
小宮 豊隆(こみや とよたか、1884年(明治17年)3月7日 - 1966年(昭和41年)5月3日)は、日本の独文学者・文芸評論家・演劇評論家。
福岡県京都郡みやこ町に生まれる。旧制豊津中学校(現在の福岡県立育徳館高等学校)を経て第一高等学校 に進む。
1905年、東京帝国大学文学部独文科に入学。大学時代に夏目漱石の門人となる。1920年海軍大学校嘱託教授、1922年法政大学教授、23-24年ヨーロッパ遊学。1925年東北帝国大学法文学部教授。1946年同定年退官。東京音楽学校(現在の東京藝術大学)校長や国語審議会委員などを歴任。49年退職。1950年学習院女子短期大学の初代学長に就任。1957年まで務めた。1951年学士院会員。
小宮豊隆『知られざる漱石』を読んだ。
漱石が主宰した午後3時からの「木曜会」の歴史。弟子に対する深い愛。根が強い。手紙魔。漱石は酒を少し飲むと真赤になる。大病をしてから人生観が変わり、東洋風の文人生活になった。「願う所は閑適にあり。厭ふものは塵事なり」(漱石)。則天去私の世界。大きく見えた。顔が大きく、道具が大きかった。子規「味覚や聴覚は、あまり発達してゐなかった」、、、、。
木曜会は、あまりに来客が多くて悲鳴をあげた漱石が、毎週木曜日を面会日と定め、午後3時から相手をした会である。弟子たちの回想によく登場するし、その会合の様子も津田清風の「漱石山房と其弟子達」という絵になっているなどよく知られている。
小宮豊隆・鈴木三重吉・森田草平・ 安倍能成(以上四天王)・阿部次郎・岩波茂雄・内田百閒・寺田寅彦・野上豊一郎・松根東洋城・内田百閒・中勘助・江口渙・和辻哲郎・滝田樗陰・芥川龍之介・久米正雄・松岡譲・高浜虚子、、、、。
芥川龍之介は「あんなに先生に議論を吹っかけて良いものでしょうか」と小宮に聞くと、小宮は「先生は僕達の喰ってかかるのを一手に引受け、はじめは軽くあしらっておき、最後に猪が兎を蹴散らすように、僕達をやっつけるのが得意なんだよ。あれは享楽しているんだから、君達もどんどんやり給え」と答えている。
漱石の命日が12月9日だったことから、彼らは毎月九日に集まった。九日会となり、1917年から1937年まで20年間続いている。彼らは在りし日の漱石と面会し、それぞれ漱石との思い出をずっと語り続けていたのだろう。それはまさに小宮豊隆のいうごとく、「極楽浄土の世界」の余韻だったのだろう。極楽浄土とは、阿弥陀仏のいる、苦しみがなく、楽しみだけがあるという世界だ。漱石が阿弥陀仏であり、その説法を諸仏が楽しく嬉しい思いで聴いているという情景が目に浮ぶ。それは津田清風の「漱石山房と其弟子達」という絵、そのものではないか。
漱石は北極星だった。その不動の星からの光に照らされて、木曜会のメンバーたちはそれぞれの分野ですぐれた仕事をして、彼らなりの光彩を放った。漱石という大きな存在が、小宮豊隆らの名を高めた。一方で、キラ星のような弟子たちの活躍と彼らが讃える漱石像によって、歴史の中の夏目漱石がさらに大きくなっていったのである。
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