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「名言との対話」 8月25日。朝比奈宗源「雑念や妄想はなくならない。なくならないものをなくそうとするからまたひとつ煩悩になる」

朝比奈 宗源(あさひな そうげん、1891年(明治24年)1月9日 - 1979年(昭和54年)8月25日)は、臨済宗の禅僧。

京都妙心寺などで修行し、鎌倉浄智寺住持をへて、1942年円覚寺貫主となり。1945年には円覚寺派管長となる。1963年賀川豊彦、尾崎行雄らと世界連邦日本仏教徒協議会を結成し会長となった。1979年、88歳で死去。

朝比奈源と向き合うことになり、 中国の偉大な禅者・臨済の言行録である有名な『臨済録』を現代語で読める機会が巡ってきた。

臨済は臨済宗の祖。866年の没年だけがわかっている。黄檗希運の法を継ぎ、参禅修行者には厳しい喝(かーつ!)を与える臨済宗は中国禅宗のなかで最も栄えた。

朝比奈は『臨済録』(タチバナ教養文庫)で、まず、この語録は「教外別伝、不立文字を本領とする禅者の語録である」とし、「いかなる文字言句も、月をさす指であり、門を叩く瓦である」と、朝比奈はこの本に掲げた「現代語訳について」で述べている。

教外別伝とは、仏陀の教えは、言葉によって伝達された場合もあったが、仏教の真の精髄は言葉によって表現しうるものではないので、心から心へと直接伝達されるとする考え方だ。不立文字とは、経論の文字によらないで、師の心から弟子の心へと、直接に悟りの内容を伝えてゆく伝法の方法だ。いずれも禅宗独特の用語である。

その上で、臨済は弟子たちに何を語ったか。その語録が『臨済録』である。弟子たちは執拗に「仏法のぎりぎり肝要のところは何か」と問う。師は一喝する。その繰り返しの中で、師は本質を述べていく。

・信に徹しきれない者はいつまでたっても埒のあく日はあるまい。

・自己の一念一念が本来清浄であると悟れば、それがお前たちの法身仏そのものだ。

・どんな場合でも自己がはっきりしていれば、外境にいかなる変化が起こっても振り回されることはない。

・仏と魔とは、一心の悟りと迷いの両面である。

・たった今、ここで自己が本来仏であり、他に求むべき何ものも無いことを見てとれ。

・今、仏道を学ぼうとする人たちは、まずなによりも自らを信じなくてはならない。

・大器の人であれば、なによりも自己の尊さを信じて、他に惑わされないことが大切だ。随処に主となることができればその場その場がみな真実である。

・生と死とは一如であって対立するものではない。

・死骸のような文字や言句を担いで天下に走りまわり、みずからの邪見に妨げられて心の自由を失っている。

要するに、先人や文字に真実を求めることなく、仏そのものである自らを信じ迷いなく、随処に主となり、日常生活を送れ、ということを繰り返し言っているのである。

そして朝比奈宗源は、雑念や妄想、煩悩には実体はないのだから、見るもの聞くもの、みな仏性であることを悟って、生活をすれば仏になることができると語っている。外界の人や書物や言葉に惑わされず、毎日を清浄な心をもって生活せよ、そう理解しよう。

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