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「名言との対話」3月31日。朝永振一郎「業績があがると否とは運です。先が見えない岐路に立っているのが吾々です」

朝永 振一郎(ともなが しんいちろう、1906年(明治39年)3月31日 - 1979年(昭和54年)7月8日)は、日本の物理学者。

東京都文京区生まれ。父が京都帝大の哲学の教授となり京都で育つ。三高、京都帝大卒後は、無給副手。1931、年理化学研究所研究員。ドイツに留学。1941年、東京文理科大学教授。1947年、「繰り込み理論」を実証で解明した。このことが1965年のノーベル物理学賞の受賞につながる。1956年、東京教育大学学長。1963年、日本学術会議会長。

長岡半太郎の弟子の理研の仁科静雄は湯川秀樹と朝永振一郎という2人のノーベル賞受賞者を育てている。仁科芳雄博士が弟子の朝永振一郎に語った言葉「業績があがると否とは運です。(中略)ともかくも気を長くして健康に注意して、せいぜい運がやってくるように努力するよりほかはありません」。仁科からはドイツ留学中に仕事の行き詰まりの時に泣き言を言ったら励ましの手紙をもらった。その時期とはいつか。もしかしたらライバルの湯川秀樹のノーベル賞受賞時ではないだろうか。

『朝永振一郎 見える光、見えない光』 (STANDARD BOOKS)を読んだ。専門の物理学の本ではなく、エッセイなので読みやすく、かつ考え方がわかるので楽しく読んだ。朝永はエッセイの名手ともいわれている。

日本学士院会員は国鉄パスがもらえる。朝日賞ではかなりの賞金が出る。朝永はこれを使って当時務めていた学校や自宅につかっている。こういうことがわかるのはエッセイだからだ。

同期生で日本初のノーベル賞を受賞した湯川秀樹についての記述が興味深い。

「同じ方面に関心を持つ同級生に、湯川秀樹さんがいたことは大きな力ともなり、大きな刺激にもなった。ときには刺激が強すぎて、いささか閉口したこともあったが」。「湯川さんは、この洪水の中ですでに自分の進路を発見していたように見えた。すなわち、次に来るものは原子核と場の量子論であるという見通しを、このときすでに立てていたように思われる。そして彼はこの方向に向って、着々と自分のペースで進んで行った」。「彼は考えごとに熱中しだすと、机をはなれて部屋の中をぐるぐるとまわりはじめる。学問に対するこの 傍若無人 な集中ぶり、、、、」。

そして、後になって、「今だから白状するが、湯川理論ができたときには、してやられたな、という感情をおさえることができなかったし、その成功に一種の 羨望 の念を禁じ得なかったことも正直のところ事実である」と語っている。

とびっきりの秀才で、理研からも有望として湯川でなく、朝永が指名されたのだが、本人の心情は揺れ動いている。

「そのようなむつかしい分野に進む野心はとても起らない。何かもっとやさしい仕事はないものか、何でもよいからほんのつまらないものたった一つだけでもよいから仕事をし、あとはどこかの田舎で余生を送れたら、などと本気で考えていた」。

理研からの誘いがあったときには、「湯川さんのように早くから自分の進むべき路を見出すことができず、あれこれと迷っていた者にとって、それは決定的な機会であった」と語っている。

理研。「とても東京の連中にはついて行けないような気が相変らずしている」。「自分はつまらない無用者なのだ、自分のようなものが大それた学問などやろうと思ったのは結局やっぱりまちがいだった、といった想念がいつも心の底にこびりついている」。

秀才にも自分の能力に対する疑念が絶えずあることがわかる。そしてライバルとの関係も微妙であることがわかる。

原子力については、「やることによって悪い方に使用されるという責任と、やらないことによって、もっと人間が幸福になれる」「妨げるという責任──この二つの責任を感じて、僕たちはハムレットのように悩む」と書いている。これは湯川と同じである。

「業績があがると否とは運です。先が見えない岐路に立っているのが吾々です」という言葉は、天才たちが競う最先端の原子物理学の研究者の厳しい世界を示している。仁科静雄記念館を訪問した時にも湯川と朝永の名前があった。そして本多光太郎の伝記では湯川より朝永を買っていたこと、そして湯川秀樹自身も朝永の秀才ぶりに圧迫を受けていたことを知った。明と暗と、快と鬱。天才型の湯川と名人型の朝永。彼らは世界を先導する素粒子論の世界を切り拓いた。天才と秀才という対比ではなく、天才と名人という対比を私も使いたい。日本の物理学界を牽引した二人の物語には今後もアンテナを立てておきたい。


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