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「名言との対話」10月25日。岡村喬生「しつこくこだわる人がいい仕事をする。編集者しかり、演出家しかり、指揮者しかり、そして歌手しかり」

岡村 喬生(おかむら たかお、1931年10月25日 - 2021年1月6日)は、日本のクラシック歌手(バス)。

東京生まれの道産子。新聞記者をめざして早稲田大学政経学部に入学したが、グリークラブに誘われたのがきっかけとなり、歌の道を進むことになった。

28歳でイタリアのローマに留学。国際コンクールで優勝し、オーストリア、ドイツの歌劇場で専属の第一バスを歴任した。この間、ウイーン国立音楽院でも学ぶ。以後、オペラ、コンサートで世界のひのき舞台を踏んだ。

49歳で帰国し、「芸術は娯楽なり」をモットーに「歌の旅」独唱会を始める。そして執筆、講演、俳優、テレビ出演などを重ね、テレビでよく見かけることになり、最も親しまれるクラシック歌手となった。

『歌う オタマジャクシ 世界奮泳記』(東京新聞出版局)を読んだ。

まず驚いたのは、芸大ではなく早大を出ており、正規の音楽教育を受けていないことだ。この本は「青春記」である。青春がずっと続いているという印象だ。

ライフワークはシューベルト「冬の旅」。あらゆる歌手が生涯の研究テーマとするほど奥の深い難しいか歌曲だ。一番素晴らしく、歌い甲斐があり、一番難しい曲である。私は今、この1時間15分の24曲を聞きながら、この文章を書いている。

「歌手は精神の自由に憧れて職業を選ぶが、経済的には苦しい仕事だ」。「イタリア語、ドイツ語をまったく話せないでイタリアにもオーストリアにも住んだ」。「ヨーロッパでは「学歴」よりも「楽歴」が問われる」。「19世紀初めのマイクの発明がもっとも大きな革新だった」。「指揮者はモーツアルトがなくなった後半世紀を経てガス灯証明が出現して初めて登場した。それまでは作曲家が指揮台にたって合図を送っていた」。

オペラとは、「歌唱音楽を主にして、最初から最後まで一つの物語を演じる舞台劇」が定義だから、日本の歌舞伎、能、人形浄瑠璃も、そして中国の京劇もオペラである。岡村は、日本人が書いた国民オペラ、日本人に身近な物語の和製ミュージカルの創造が必要だと述べている。「夕鶴」(原作は木下順二)、「金閣寺」「KOPJIKI」(黛敏郎)、「春香」(高木東六)、立川澄人が特別出演した「吉四六昇天」(清水脩作曲)などが日本人の創作オペラだ。

「一度やると止められないのがギャンブルと執筆だ」と岡村はいう。「夕刊フジ」にエッセイの連載中に先輩の高木東六から「私はおだてられてせっせとセックスのことを書き、随分と評判を落としました。あなたも気をつけた方がいいですよ」との忠告を受けた。このエピソードは私も「名言との対話」の「高木東六」の中で書いたことがある。

富士山を仰ぎ、山中湖を見下ろす山中湖の山荘で、ピアノを弾き、ワープロを打ち、炬燵で読書し、ワープロへ向かう。邪魔の入らない山荘でこの本を書いた。

古本で手に入れ、私が読んだこの本には「惠存! 岡村喬生 芸術は娯楽なり 2001.1.31 日 出版の日に 東京に?」と書いた自筆サインがあった。「あとがき」は200年11月だから岡村は69歳だ。「僕は75歳までは、何でも屋の中の基本「歌」うぃ続けるつもりだ。そして20年後、またこのような本が書けることを切に願う」とある。20年後は昨年2020年末で、岡村は89歳になっているはずである。このライフプランはどうなったか。コロナ禍の2021年1月6日に89歳で亡くなっている。続編は書けなかったようである。

この本は一種の「青春記」だ。バンカラ学生が世界を舞台に波乱万丈の日々を送るという痛快物語だ。「続編」を読んで、70代、80代の岡村喬生のことも知りたかったな。

「しつこくこだわる人がいい仕事をする。編集者しかり、演出家しかり、指揮者しかり、そして歌手しかり」。岡村喬生のメッセージを大事にしよう。

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