見出し画像

「名言との対話」6月16日。ヘルムート・コール「ぼくは将来キリスト教民主同盟の党首になるつもりだ」

ヘルムート・ヨーゼフ・ミヒャエル・コール(Helmut Josef Michael Kohl、1930年4月3日 - 2017年6月16日)は、ドイツ(旧西ドイツ)の政治家。

コールは戦後16年にわたって連邦首相を務めた(在任1982年 - 1998年)。冷戦終結の波に乗り、1990年に東西に分裂していたドイツの再統一を成し遂げた功績者である。

1989年にポーランド、ハンガリーで民主勢力が政権をにぎったとき、ソ連は介入しなかった。それをコールは共産主義崩壊の兆しとり、ドイツ再統一のチャンスだとみた。東ドイツからの逃亡者たちは、ハンガリー、オーストリアを経由して、西ドイツに入ることができた。その2か月後の11月にベルリンの壁が崩壊した。そして悲願の東西ドイツが1990年に誕生する。ゴルバチョフ大統領との信頼関係を築いた、謙虚なリーダーであったコールは、ブラント首相は独ソ不行使条約、シュミット首相は大規模な独ソ経済協力条約を結び、それが統一の基盤となったと先輩たちを讃えている。

私は大学4年生であった1972年の夏に、ベルリンの壁の地下を通って東ベルリンに入ったことがある。旅行中に「壁」を見物に行ったら、たまたま幸運にも入れたのだ。東ドイツの子どもの兄弟と会話をしたことを思い出す。兄は少し警戒していた。まだ戦禍の後が残っていて、西ベルリンとの違いは明白だった。

「私はアデナウアーの孫ようなものだ」と語るコールは、第二次大戦修了時は15歳であり、ナチスとは関係なかった。それは少しだけ遅く生まれた幸運だった。「ぼんくらコール」と「いわれたが、さまざまの幸運に恵まれた。しかし、それを自分の力のせいだと想い上がることはなく、静かな調子で国民に語りかけるリーダーだった。人事の名人でもあったコールは16年という長期政権をつとめている。

コールの名言をいくつか挙げてみよう。「それは古典的なジャーナリスト的主張ですな。それは正しい (richtig)が、真実(Wahrheit)ではない」「昨日の理想主義者は今日の現実主義者になる」「ドイツの統一とヨーロッパの統合は、メダルの両面のようなものである」

ドイツの歴代首相のリストを眺めると長期政権の連続であることがわかる。アデナウアー14年。エアハルト3年、キージンガー3年、ブラント5年、シュミット8年、コール16年、シュレーダー7年、そして現在のメルケルは2005年から現在まで15年目の長期政権だ。

コールが87歳で亡くなったとき、メルケル首相は「コール氏は偉大なドイツ人であり、偉大なヨーロッパ人だった」「彼は、ドイツ統一とヨーロッパ統合というドイツにとって、過去数十年最も重要だった2つの課題に懸命に取り組んだ」「私の人生にも決定的な影響を与えた」と讃えた。

日本の中曽根首相は「西側諸国が団結し、東西冷戦の終結とともに東西ドイツの統一が実現したことは、コール氏の指導力と判断、そして何よりその果断な行動力がもたらしたものだ」と述べている。

「ぼくは将来キリスト教民主同盟の党首になるつもりだ」とは、この組織に入ったときの17歳の発言である。ゆっくり、しっかりした足どりで、堅実な実質主義を貫いて、その立場に到達したとき、それ以上の東西ドイツの統合という大舞台を待っていたのである。そして、コールはその大舞台を成功させた。

「普通ならば3年、いや5年はかかったはずだ。だけど私は、いま断じて行えばドイツを統一できるチャンスだと腹を決めて、瞬間的に短時間でことを運んだ。イギリスは反対する、フランスも反対する。アメリカは日和見を決め込むだろう。それを押し切ってやるのがいまだ、私はそう決断してやったのだ」。このときだけは、自分の流儀を超えて、瞬間的な短時間でことを運んだのである。17歳の大志に対し、神はそれ以上の大いなる仕事をこの人物に与えたのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?