「名言との対話」9月20日。鈴木梅太郎「放っておいても一人前にやってゆく連中は心配しないが、そうでない教え子ほど可愛い、、」
鈴木 梅太郎(1874年4月7日 - 1943年9月20日)は、戦前の日本の農芸化学者。米糠を脚気の予防に使えることを発見した事で有名。勲等は勲一等瑞宝章。東京帝国大学名誉教授、理化学研究所設立者。帝国学士院会員。文化勲章受章者。享年69。
静岡県出身。14歳で単身徒歩にて上京する。115歳、東京農林学校に入学。19歳、帝国大学農科大学に入学、卒業時には全卒業生を代表して答辞。大学院で学び、農学博士。27歳、ドイツのベルリン大学に留学。1906年帰国し盛岡高等農林教授。33歳、東京帝国大学農科大学教授。44歳、理化学研究所主任研究員。52歳、東京帝大農学部長。60歳、退官・64歳、合成酒を発明し、理研酒工(株)を創設、この会社は協和発酵を経てキリンビールに引き継がれている。69歳、文化勲章。
毎年1000人以上が脚気で死亡していた時代に、米糠が効くことを発見した。白米はいろいろな成分が不足しており、糟と麦と玄米が脚気に効く。その成分を抽出しオリザニンと命名、これが後のビタミンB1である。
脚気は手足のまひ、しびれなどを引き起こし、国民病と呼ばれるほど流行した。明治時代には年間数万人が死亡する。軍隊でも流行し国家的規模の問題となった。陸軍はドイツ留学の森林太郎(鴎外)が「細菌説」をとった。日清戦争で4000人以上、日露戦争で2万7千人が死亡した。海軍はイギリス留学の高木兼寛が麦飯を推奨し、日清戦争ではゼロ、日露ではわずか3人となり、脚気を撲滅した。
1919年に鈴木梅太郎がオリザニンを米糟から抽出し、翌年にビタミンが発見された。それ以来脚気による死者が激減した。これによって、鈴木は理研に莫大な利益をもたらしている。鈴木はビタミンの発見者でもあり、抜群の業績からノーベル賞候補にもなった。鈴木は理学研究所では、物理学の長岡半太郎、工学の本多光太郎と並び、理研の三太郎と呼ばれている。
2000年10月23日の朝日新聞で、この1000年で最も傑出した科学者は誰かという面白い企画があり、読者の人気投票を行っている。1位野口英世、2位は湯川秀樹、3位は平賀源内。鈴木梅太郎は堂々の11位だった。
鈴木は研究者として超一流だっただけでなく、教え子1000人を数える大教育者でもあった。研究面では「独創は学問といわず実業界その他あらゆる面で最高の指針だ」という言葉も残しているが、冒頭の言葉以外にも 「途中で止めては何もならない」など教育者としての言葉もなかなかいい。
また東京帝大時代は農学部長をつめたし、退任後は理研酒工を創業するなど、管理者、経営者としても活躍しているのは見事である。
私は多摩大時代に半年遅れの9月卒業式のときに、こういった鈴木梅太郎の言葉を引用して挨拶をしていた。確かに、心配するということはかわいく思うことでもある。
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