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「名言との対話」 7月24日。黒田 正玄「茶杓はその人の人柄を象徴します」

第十三代黒田正玄(くろだ しょうげん。(1937年(昭和11年)? - 2017年(平成29年)7月24日)は、千家十職の一つで、竹細工・柄杓師。

代々襲名している。柄杓の他、台子、香合、花入など竹を使う茶道具を製作し、千家に納めてきた家系である。

初代正玄は、元々武士で丹羽長重に仕えていた。しかし関ヶ原の戦いで丹羽氏は西軍に付き改易、浪人となったために剃髪して大津に移り住み、竹細工職人となった。評判の竹細工師となった正玄は小堀政一(遠州)からの注文を受け、茶道界・江戸幕府とのつながりを作る。以後明治維新に致るまで、歴代三千家・将軍の御用達柄杓師となる。

初代 正玄(天正6年(1578年) - 承応2年8月8日(1653年9月29日))

二代 正玄(寛永3年(1626年) - 貞享4年4月14日(1687年5月24日))。初代の三男。27歳の時に家督相続。

三代 正玄(明暦5年(1656年) - 享保2年10月2日(1717年11月4日))。二代の長男。

四代 正玄(元禄5年(1692年) - 享保16年7月26日(1731年8月28日)) 。三代の長男。

五代 正玄(宝永5年(1708年) - 安永7年7月15日(1778年8月7日))。四代に子供がいなかったため、二代の妻の実家・勝見五郎兵衛家から養子。

六代 正玄(延享4年(1747年) - 文化11年6月2日(1814年7月18日))。五代の長男。

七代 正玄(明和5年(1768年) - 文政2年12月7日(1820年1月22日))。六代の養子。

八代 正玄(文化6年(1809年) - 明治2年10月15日(1869年11月18日))。七代の長男。

九代 正玄(天保8年(1837年) - 安政6年10月20日(1859年11月14日))。八代の長男。

十代 正玄(文政8年(1825年) - 明治33年(1900年)12月22日)。八代の婿養子。九代の急死のため、急遽師匠の命により呼び戻されて後継者となる。その時に妻子を離縁したという秘話が伝わっている。

十一代 正玄(明治2年(1869年) - 明治44年(1911年)8月15日)。十代正玄と八代正玄の娘の間に生まれた長男。

十二代 正玄(明治13年(1880年) - 昭和48年(1973年))。十一代正玄の妻。

十三代 正玄(昭和11年(1936年) - 平成29年(2017年)7月24日)

現在の十四代正玄は、十三代正玄の長女。

「黒田正玄(くろだしょうげん)」という名は、千家十職(せんけじっしょく)のひとつである。 千家十職というのは、三千家の茶道具の製作を任されてきた職人の名。そのなかで黒田正玄は、竹細工や柄杓師を務める家だ。茶杓、柄杓のほか、台子(だいす)や香合(こうごう)など、竹を使った茶道具を千家に納めてきた家系である。に400年も続く名前である。その十三代をサッカーの中田英寿が取材しているブログをみつけた。「茶杓はその人の人柄を象徴しますね」の後に、「豪胆な性格の型は茶杓も太いですし、繊細な型は細い茶杓ですし。中田さんは、やはり茶杓の幅も広めの形はどうでしょう。」とアドバイスをもらっている。(中田英寿「に・ほ・ん・も・の」)

この連綿として続く14人を擁する家系をあげてみたが、実子の男女、養子、婿養子、妻などが、家を守り続けているのには、感銘を受ける。幕府の崩壊、戦中・戦後の苦難など、この家を継いでいく「家系」にはドラマがありそうだ。

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