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「名言との対話」8月26日。武村正義「質実国家」


武村 正義(たけむら まさよし、1934年(昭和9年)8月26日 - )は、日本の政治家。

滋賀県立八日市高等学校では日本民主青年同盟。新聞部の部長時代に無期謹慎の処分を受けた。生徒会長に立候補し、吉田内閣の逆コースと再軍備施策を批判。名古屋大学工学部機械工学科に1浪の末に合格。東京大学教育学部の3年生に編入学。卒業後、東京大学新聞研究所を経て経済学部に学士入学し卒業。国家公務員上級試験に合格後、27歳で自治省に入省。面接官は後藤田正治だった。

1970年退官し、郷里の八日市市長に当選。30代の若い市長だったが、1期中ばで市長を辞任し滋賀県知事選で当選。破産状態の財政を再建する。琵琶湖条例をつくる。二期、三期は無投票当選だった。

1986年衆議院議員選挙で初当選。1988年、鳩山由紀夫、石破茂らと政策勉強会「ユートピア政治研究会」を発足。1993年「新党さきがけ」を結党し党代表。同年の衆議院議員総選挙では「新党ブーム」に乗って13議席を獲得し躍進。細川護煕の日本新党と院内統一会派「さきがけ日本新党」を結成し共同代表。細川を首班とする非自民・非共産連立政権である細川内閣が誕生し、武村は内閣官房長官に就任。1994年村山富市を首班とする自社さ連立内閣を成立させ大蔵大臣に就任。1996年鳩山、菅直人らが新党さきがけを離党し、民主党を結成するが、武村は「排除の論理」で参加を拒否される。2001年政界を引退。

こうやって眺めると、「ムーミンパパ」と呼ばれた温かい雰囲気の見かけとは違って、血の気の多い人だったという印象だ。細川非自民政権で、政府仕切る武村官房長官と寄せ集めた党側を代表する小沢一郎代表幹事のさや当ては私の記憶にもある。

武村正義・田中秀征『さきがけの志』(東洋経済新報社)を読んだ。

同志の田中秀遠征によれば、「逃げない人」「泥をかぶろうとする人」「真綿で包んだ水晶のような人」という高い評価を与えている。

「さきがけ」の武村正義は、どういう志を持っていたのだろうか。

「理想を掲げた現実主義者でありたい」と言い、日本国憲法は一番求められている理念を高々とうたいあげている、尊憲、政治的軍事大的大国を目指さないという決意が大事と、憲法を語っている。琵琶湖の赤潮が原点で、環境に関心を持ち、地球環境問題へと関心がひろがっていく。琵琶湖から憲法もみるという姿勢であった。

「さきがけ」結党時の理念では、天皇制を皇室という温かみがある言葉に変えている。現在では日本人は皇室という言葉で国を考えているようになった。慧眼である。

四半世紀前の時点で、武村はこれからのリーディング産業は「情報通信、環境、福祉・医療」をあげている。社会保障費は1995年時点で60兆円、30年後の2025年には370兆円。負担の限度を超えていると、予測している。

「一定の合意を実現するか。これが本当の政権を担う側の責任ある政治の姿です」と非自民の細川、村山政権で、官房長官、蔵相をつとめた経験を語っている。

武村は日本の理想像を「質実国家」という。質の高い実のある国家という意味だ。石橋湛山は「小日本主義」を主張し、「一切を棄つるの覚悟」では、「我が国の総ての禍根は、小欲に囚われていること、志の小さいことだ」と断じた。湛山の弟子・宇都宮徳馬に師事した田中秀征は、「質日本主義」と言い、佐高信は、「良日本主義」と呼んでいる。 小日本主義、質日本主義、良日本主義と、どのように呼ぼうと、石橋湛山、宇都宮徳馬、田中秀征と続くリベラルの流れは確かにある。武村は「小さくともキラリと光る国」と表現し、新党さきがけの党スローガンに「質実国家」を挙げている。武村はそれを質実国家と呼んだのである。

21世紀に入って、急速に経済大国の地位から滑り落ちようとしている日本にとって、「質実国家」という武村正義と「さきがけ」の理念は貴重な遺産という気がする。小さな志ではなく、それは実は大きな志なのではないだろうか。

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