「名言との対話」1月15日。野村徳七「船は沈むが、株は沈まない」
第二代野村 徳七(のむら とくしち、1878年(明治11年)8月7日 - 1945年(昭和20年)1月15日)は、日本の実業家。
大阪出身。父の初代徳七は大阪の本両替店の奉公人から身を起し、明治五年に独立して銭両替商を営んでいた。二代目徳七は、 両替商として20代前半で大阪に1907年に野村商店を立ち上げる。アメリカのモルガン商会をみて、あそこまでいくには銀行が必要だと考え、1918年大阪野村銀行(大和銀行、現在のりそな銀行)を立ちあげる。1925年、証券部を独立させ野村証券を設立する。一代で野村財閥をつくった。
日露戦争、第一次世界大戦、など三度の大仕手戦をやり、すべて勝利を収めた。日露戦争後には「私が命をかけて考えたことだから、けっして間違ふ筈はない」として勝利している。第一大戦では日本が地の利を得るとして相場を張った。三度目の勝負に大勝利をおさめ、野村徳七は日本で数人の大富豪になった。10年に一回チャンスが訪れ、勝負する。その後は疲れを癒すとして欧米、東南アジアなど海外に足を向けている。
南洋開発にも興味を嶋氏、ボルネオのゴム栽培などに事業にも乗り出している。1928年、貴族院勅撰議員。1938年、、野村合名を長男に譲り引退。
以下、野村徳七の名言から。
「船は沈むが、株は沈まない」「人材を養い、有為の人物を備え、適材を適所に配するは、資本力以上の大いなる財産である」「常に一歩前進を心掛けよ。停止は、退歩を意味する。「決断、実行したあとは笑って遊べ」「むしろ多くの人に変わって合理的に危険をおかすことにこそ、企業家の本分がある」
茶号を得庵として、多くの茶会を催した。茶道具を中心とする古美術の収集でも知られ、それらは野村美術館に収納されている。私の「人物記念館の旅」にも、企業の博物館、創業者の記念館も意識的に視野に入れていこう。
野村証券の田淵義久(小田淵)にはJAL広報課長時代に接したことがある。当時の山地社長と田淵社長との対談をホテルで企画した。このとき野村證券は日本トップの利益をあげていた。山地社長からは「よく、この人をつかまえたね」と言われた記憶がある。田淵社長にはゆったりした大人物との印象を持った。
『事を成すには、狂であれ』の著者の福井保明は、小説だから、「実際に野村徳七なら、こう考えていたであろう」と思わせるに足る嘘話を含めて、虚実織り交ぜて書いたとしている。そして「危険を恐れず新しい領域に挑戦せよ」と野村がいい続けた。それを伝えたいと前書きに描いている。この本の中での野村徳七の姿と言葉を以下のように描いている。
新商品、新機軸をつくり売る。誰もやっていない事、誰も扱っていない商品、それを世に出すために苦しい道を歩む。野村の道はこの道や。命をかけて瞬時に判断する。営業は口やない。誠心誠意。株は調査研究を深くして、度胸で勝負するという事ですのや。株式は科学や。負けたら素裸になるだけや。新卒を雇って研修を重視。抜擢と若返り。「数字は人格や。数字を上げん奴は人格がないんと同じや」。戦後の野村證券でもこの言葉はよく使われた。 「給与、報酬は常に業界一。一体感のある経営や」。
貴族院議員時代に、高橋是清大蔵大臣と会話を交わしている姿も出てくる。「財政均衡論の名のもとに何もしなかった結果、悪質なデフレというか恒常的な不景気に陥った」「景気の腰を折るような増税はせず、公債発行で乗り切る。、、税収が増えてくれば、放っておいても財政は均衡する」。この本は2019年12月3日発刊だから、現在の日本への警鐘になっている。
野村徳七は「相場は狂せり」という言葉も発している。天才とも言われたこの「狂人」は狂した相場にまさに命を懸けた人だ。株屋と下に見られていた業界を、明治、大正、昭和という日本の近代を疾走し、証券業界という業界に仕上げて、世界に冠たる野村証券を築きあげた人物である。まさに株は沈まなかった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?