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「名言との対話」 8月29日。竹鶴政孝「頭ニハイラヌ、ヤケダ、イヤイヤ辛抱セヨ」

竹鶴 政孝(たけつる まさたか、1894年6月20日 - 1979年8月29日)は、広島県賀茂郡竹原町(現・竹原市)出身の日本の実業家。ウイスキー製造者、技術者。会社経営者。

ニッカウヰスキーの創業者であり、サントリーウイスキーの直接的始祖、マルスウイスキーの間接的始祖でもある。これらの業績から「日本のウイスキーの父」と呼ばれる。

『ウイスキー一筋にいきてきた男。竹鶴政孝』(マガジンハウス)を読んだ。

つくり酒屋の三男。大阪高等工業学校醸造科を中退し摂津酒造におしかけ入社。社長からウイスキーの本場であるスコットランドで勉強してきて欲しいと言われる。現地では蒸留所での実習に明け暮れる。

スコットランドで恋人となり、妻となったリタは「日本で本物ウイスキーをつくる」政孝の夢を手伝いたいと一緒に日本に戻る。 その後のことは、2014年度NHK連続テレビ小説・竹鶴政孝夫妻をモデルとした「マッサン」を私もみていたらからよくわかる。この番組には、影響を与えたサントリー創業者の鳥井信治郎も鴨居欣次郎役で出ている。「ウイスキーの仕事は私にとっては恋人のようなものである。恋している相手のためなら、どんな苦労でも苦労とは感じない」。竹鶴は二人の恋人を持っていたのだ。

「一人でも多くの日本人に本物のウイスキーを飲んでもらいたい」と志した竹鶴は、大日本果汁株式会社を立ち上げ、果汁生産で時間を稼ぎ、本丸のウイスキーづくりに邁進し、ついに出荷する日を迎える。日と果の頭の文字を取って、カタカナのニッカウヰスキーと命名した。蒸留所は余市、次に宮城峡に設置している。北海道の余市は、清冽な水と新鮮な空気、豊富なビートが採れる寒冷な土地だ。日本のハイランド。余市市はリタ没後27年後のリタの故郷と姉妹都市になっている。JR作並駅から徒歩25分の仙台・宮城峡は、スコットランドのローランド地方に似た気候風土である。

竹鶴政孝・リタの物語はウイスキー誕生の物語だが、酒づくりにはそれぞれドラマがある。そのドラマにはかならず、人がいる。山梨のサントリーのワインづくり、日本全国各地の日本酒づくり、最近の例でいうと山口の「獺祭」誕生の物語、そして焼酎づくり、例えば大分の「いいちこ」、それぞれドラマがあることは、私も旅をしながら実感している。

竹鶴政孝は、スコットランドの3年間で、現地で学んだことは克明に2冊のノート(竹鶴ノート)に記し、図式し、イラストも用いた 。それから50年後の1962年に訪日したヒューム英国首相は「50年前、頭の良い日本の青年がやってきて一本の万年筆とノートで英国のウイスキーづくりの秘密を盗んでいった」とユーモアを交えながら挨拶をしている。ウイスキーの製造法は門外不出だったのだ。その「竹鶴ノート」の余白には「頭ニハイラヌ、ヤケダ、イヤイヤ辛抱セヨ」とあった。どのような分野にも先駆者、創業者がいる。どの物語も心を打つ。

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