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「名言との対話」1月13日。橋本雅邦「神あって而して後形動く。物我相合し、心筆一致し、余情の紙外に溢るゝゆえん」

橋本 雅邦(はしもと がほう、男性、天保6年7月27日1835年8月21日) - 明治41年(1908年1月13日)は、明治期の日本画家。享年72。

東京都(江戸木挽町狩野勝川院邸内)出身。狩野勝川院雅信に入門し、同時入塾した狩野芳崖とともに、勝川院門下の「二神足」「竜虎」と称され、明治画壇の巨匠として日本画の命脈を保った。

明治初期は困窮し、扇子絵を描き三味線の駒を作って糊口をしのぎ、海軍兵学寮の図学の教師をしていたが、1882年の第一回内国絵画共進会の「竹林に鳩」「李白観瀑図」など濃淡を用いて狩野派の硬さを脱した作品で、銀牌第一席を得て画壇に認められる。岡倉天心フェノロサらによって創立された鑑画会に参加し、芳崖とともに日本画革新の先駆となった。

東京美術学校開校とともに教授となり、直前にい死去した芳崖亡きあと、その指導理念を受け継ぎ、古今東西の流派にこだわらず自由な個性伸長の教育を徹底して実行した。

日本美術院の創立にあたって、美術学校を退き、天心を助けた。「神(精神)あって而して後形動く。物我相合し、心筆一致し、余情の紙外に溢るゝゆえん」という「心持ち」を第一義とした画論を主張した。東京に実学校では、横山大観・下村観山・菱田春草をはじめ、寺崎広業・西郷孤月・川合玉堂・木村武山・石井林響・山内多門ら多くの後進を指導し、明治・大正・昭和の日本画壇を担う大家を育成した功績は大きい。

代表作に「秋景山水図」「白雲紅樹図」「竜虎図屏風」などがある。

橋本雅邦は、日本画の分野で嘉納芳崖とともに、狩野派の描法である江戸時代の「近世」と、遠近法を取り入れるなどして明治に花開いた「近代」への橋渡しをした画家である。

雅邦には「神あって而して後形動く。物我相合し、心筆一致し、余情の紙外に溢るゝゆえん」という言葉がある。神とは、精神のことである。絵を描くには、まず精神、心の修業からはじめよということを言っている。雅邦に影響を受けた大観も「人間ができてはじめて絵ができる。それには人物の養成ということが第一で、まず人間をつくら ねばなりません。、、。世界的の人間らしき人間ができて、こんどは世界的の絵ができるという わけです。、、、ただ一つ我は日本人であるという誇りをどこまでも堅持してもらいたい」と言っている。こういう人格主義の流れは、「偉大な人が出た時に初めて偉大なる芸術が出来る」という大観以下、観山、春草、玉堂ら、後を継いだ日本画の巨匠の中にとうとうと流れている。近世のエキスを、洋画の怒涛の進撃の中で食い止め、近代につないだところに、橋本雅邦の功績があるとあると感じた。

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