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「名言との対話」5月2日。鈴木與平(6代目)「婿養子」

鈴木 與平(すずき よへい、1883年明治16年)2月5日 - 1940年昭和15年)5月2日)は、明治から昭和にかけての日本実業家政治家

静岡県静岡市清水区生まれ。東京高商在学中に、鈴木家の婿養子となる。卒業後10年ほどたった1917年に家督を相続し鈴木與平の名を継いだ。

1919年、静岡県会議員。日本郵船等を経て、家業である鈴木與平商店を経営する。1936年、鈴与商店を設立。清水商工会議所をはじめ、倉庫、塩業、運送、機械等、次々と新会社を設立した。

公職では、清水市議会議長、静岡県会議長、清水商工会議会頭などを歴任した。1939年には多額納税者として貴族院議員に互選されている。

清水市を土台に静岡県の産業を牽引した鈴木與平は、創業者の名前を継いだ6代目である。江戸時代の1801年(享和元年)に鈴木與平という人物が回漕業・播磨屋をはじめた。それが200年後の現在も存続しているということになる。この婿養子を選んだことは鈴木家にとっては大成功だった。

ところで、この「名言との対話」で、近代を中心に人物たちの足跡を追っていると、「養子」という言葉によくでくわす。江戸時代からも日本では「養子」が多かった。シャープ2代目の佐伯旭は早川徳次の養子。九谷焼の徳田八十吉も養子。キッコーマンの茂木啓三郎も養子。吉田茂は横浜の貿易商の養子。斎藤茂吉は斎藤病院の養子。平櫛田中は実家の田中を名前につけている。高橋是清青木周蔵湯川秀樹、、。夏目漱石も養子に出さたことがある。

「婿養子」ということも多くあった。横浜の生糸貿易商・原三渓(富太郎)。富士屋ホテルを大きく発展させた山口正造。日本生命の社長を35年つとめた弘世現。庄屋を再興した伊能忠敬。、、、

こうやってみると、日本は「家」の存続と繁栄を至上の価値として歴史を編んできたことがわかる。意外にも血筋、血統、肉親を大事にしない。家が大事だから、男子の養子をとり、娘には婿をむかえることができるから、娘が生まれると親は喜んだそうだ。その婿は内部からの場合もあるし、外から招く場合もある。いずれにしても、養子たちは、自分に課せられたテーマを意識し、その家の歴史を知り、人生を組み立てていくから、実子よりも強い使命感を持つことが多くなる。

日本の家という制度は、実は法人であったということだ。実子、養子、婿養子、あらゆる方法を用いて「家」の存続を図ったのである。「家の再興」を息子に託す親や、それをテーマとして人生の荒波に漕ぎ出す人も多くあったのだ。明治維新で西欧から株式会社という制度が入ってきたが、日本がいち早く適応したのは、そういう思想がもともとあったからなのだ。

鈴木與平については、「6代目」に着目して書いてみた。「婿養子」という言葉を採ることにしよう。

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