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「名言との対話」4月29日。尾崎秀実「英子や楊子、並びに真に私を知ってくれる友人達の記憶の中に生き得ればそれで満足なので、形の上で跡をとどめることは少しも望んでおりません」

尾崎 秀実(おざき ほつみ、1901年明治34年)4月29日 - 1944年昭和19年)11月7日)は、日本評論家ジャーナリスト

東京帝大法学部卒業後、朝日新聞に入社。1928年、上海特派員、ソ連共産党員のドイツ人・ゾルゲと知り合う。1932年、大阪本社、1934年にゾルゲと再会し、諜報活動を支援する。日本とソ連の戦争を回避するためであった。1934年、東京。1938年に朝日新聞を退社し、近衛文麿首相の嘱託となる。1939年、満鉄調査部嘱託。尾崎は東亜協同体論の中国評論家として大をなしていく。1941年、ゾルゲ事件で逮捕され、1941年に処刑された。獄中の書簡集『愛情は降る星のごとく』がある。

尾崎秀実「遺書」(「日本の名随筆 別巻 17  遺言」)を読んだ。あて先は家族ではなく、「竹内老先生」となっている。高名な中国評論家の竹内実である。以下、「遺書」から。

  • 遺言と申す程のことはありませんが、家内へ申し伝えたい言葉を先生までお伝え致しおき、小生死後先生よりお伝え願ったらいかがなものかと、ふと心付きましたのでこの手紙を認めました次第でございます。

  • 一、小生屍体引取りの際は、どうせ大往生ではありませんから、死顔など見ないでほしいということ、楊子はその場合連れて来ないこと。一、屍体は直ちに火葬場に運ぶこと、なるべく小さな骨壺に入れ家に持参し神棚へでもおいておくこと。一、乏しい所持金のうちから墓地を買うことなど断じて無用たるべきこと。勿論葬式告別式等一切不用のこと(要するに、私としては英子や楊子、並びに真に私を知ってくれる友人達の記憶の中に生き得ればそれで満足なので、形の上で跡をとどめることは少しも望んでおりません)

  • 妻子に只一つ大きな声で叫びたいことは、「一切の過去を忘れよ」「過去を一切を棄てよ」ということです。、、、一切を棄て切って勇ましく奮い立つもののみ将来に向って生き得るのだということをほんとに腹から知ってもらいたいというのです。、、、結局「 冷暖自知」してもらうより他はないと「思います。、、、「大きく眼を開いてこの時代を見よ」と。、、、これこそは私に対する最大の供養であると、どうぞお伝えください。。、、そうして「心からお気の毒であったと思っている」とお伝え下さい。一徹な理想家というものと、たまたま地上で縁を結んだ不幸だとあきらめてもらう他ありません。

  • ここの所長さんの御好意によって自由な感想録を書かしていただいています。、、世界観あり、哲学あり、宗教観あり、文芸批評あり、時評あり、慨世あり、経綸あり、論策あり、身辺雑感あり、過去の追憶あり、といった有様で、よく読んいただければ何かの参考になろうかと思っております。

尾崎秀実はソ連のスパイ説と、日本を愛する国士だったという相反する二つの説がある。今日でも、テレビで「ゾルゲ事件」に関する番組が放映されることもこともあるが、真相はなかなかわからない。「スパイ」は敵対する陣営の間にたつというまことに微妙な役割を演じる人である。どちらからも信頼され、どちらからも疑われるという宿命がある。その真意は日本とソ連とが戦争向かうのをやめさせようとしていたと理解しておこう。この「名言との対話」を書き続ける中で、関係者の生涯を何人も追うことになるだろうから真相に近づくことができるだろう。


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