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「名言との対話」10月22日。朱鎔基「どんなことでもむやみに追従せずに自分で思考すること、信念を貫き、何ものも恐れない精神を持つこと」

朱鎔基(しゅ ようき、簡体字:朱镕基、繁体字:朱鎔基、英語:Zhu Rongji、ヂュー・ロンチー、1928年10月1日 - )は、中華人民共和国の政治家。第5代国務院総理。

1951年清華大学電機工学部卒業。東北人民政府工業部に勤務、1957年からの反右派闘争で批判され、1978年名誉回復。国家経済委員会局長、清華大学教授などをへて、1987年共産党中央委員候補。

1988年上海市長、1989年同市党委員会書記を兼任し、浦東新区の経済開発を指導。1991年副首相に昇格、国営企業の連鎖債務問題を扱い、のち中国人民銀行総裁を兼務。1998年首相となり、江沢民政権を支えた。2003年の全人代で温家宝に首相の座を譲る。

朱建栄『朱鎔基の中国改革』(PHP新書)を読んだ。

この書は1998年に刊行されているから、首相としての活躍については、21世紀の中国の命運を握るのが「赤い経済皇帝=朱鎔基首相」だと期待を述べるにとどまっている。

精華大学電機学部電機製造専攻を卒業。200を超えるIQと人一倍の努力の人。「独立思考」の精神。他人のメンツをつぶしても真実を守るストロングマンの性格。

火事撲滅大隊長、難問を解く名手、マクロコントロールの大師、中国のゴルバチョフなど、仕事師ぶりをあらわす言葉は多い。

最高権力者の鄧小平は、政治と軍は江沢民(虎:寅年)、経済は朱鎔基(龍:辰年)が最終的な責任を持つという後継体制をつくった。中国では龍と虎が力を合わせればパワーが格段に増強すると言われている。実際にそのとおりになった。

朱鎔基は副首相以来、トップの座を狙う野心がないことをはっきりと表明している。朱鎔基待望論の高まりを退け、指導部内部での権力闘争の芽を事前に摘み取るという戦略をとった。実際、首相の座で5年間全力投球して引退しているのは、見事な出処進退だ。

就任時に掲げた「三大改革」である行政改革、国有企業改革、金融改革を3年で実行するという目標を断行している。1998年には中央政府の省庁数が40から29に減らされ、職員も半分の約1万7千人に削減。2000年初頭からは、地方政府ごとに改革案が発表され実行に移された。国有企業改革では、1997年末に赤字に陥っていた6,599社の大中規模国有企業のうち、4,799社(73%)が赤字を脱却し、利益総額は97年の2.8倍に伸びている。

朱鎔基は1994年2月に副首相として来日している。そして2000年10月にも来日している。テレビ番組出演と、それを受けた形の日本記者クラブの共同会見を行った。2年前の江主席訪日後に日本国内に広がった「嫌中感」を和らげたいとの狙いがあった。私も大学生との対話をみたのだが、テレビで当意即妙の受け答えをし、ユーモアあふれる言葉を使い、中国に対する印象をやわらげた功績は大きいものがあった。日中関係については「歴史を鑑とし未来に向かうという原則を守り、子々孫々仲良くしていくことが、我々の願いだ」と強調した。

「たとえ私の前に地雷原があろうと、万丈の深淵があろうと、私は後ろを省みず、勇敢に前進し、死をも厭わず、全力を尽くす決意だ」という言葉どおり、21世紀の中国の強大化への道筋を描き、実行した手腕は大したものだ。

1998年時点で、2000年の次期党大会で中央政治局常務委員7人のなかで、引退しなくてすむメンバーは胡錦涛一人。政治局委員には温家宝がいた。中国共産党の幹部はほとんどが理工系出身の学歴を持ち、地方での実績を積み重ねており豊かな実務経験がある。その中から権力闘争を経て鍛えられた指導者が選ばれていくのだから、リーダー選びにおいて間違いは少ないように感じる。そのことは現在の中国の姿をみればわかる。

朱鎔基の信念は「どんなことでもむやみに追従せずに自分で思考すること、信念を貫き、何ものも恐れない精神を持つこと」だった。「自力思考と勇気勇敢」というキーワードをあげておこう。

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