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「名言との対話」9月25日。五代友厚「仕事は命がけや。死んでも仕事は残る。そういう仕事をせなあかん」

五代 友厚(ごだい ともあつ。天保6年12月26日(1836年2月12日--1885年9月25日)は、江戸時代末期から明治時代中期にかけての武士実業家 享年49。

鹿児島市出身。薩摩藩武士の次男。15歳、藩から長崎海軍伝習所の練習生に選ばれ航海術を学ぶ。1865年に年寺島宗則とともに、後の初代文部大臣森有礼など14名の留学生を率いて、イギリスに渡る。帰国後、明治新政府の参与兼外国事務掛となり、会計官権判事。

その後、1869年に下野し実業界に転じる。1876年に堂島米商会所、1878年に大阪株式取引所(現大阪取引所)を設立、大阪商法会議所(現大阪商工会議所)を設立し会頭。1879年に商業学校の必要性を痛感し大阪商業講習所(現大阪市立大学)を創設。

また住友金属工業商船三井のもとになった会社も設立しているなど、明治初期に瓦解寸前であった大阪の当て直しをはかり、大阪経済の恩人と呼ばれるほどの活躍だった。1885年に新築した中之島の自宅は、現在の日本銀行大阪支店になっている。

薩摩出身の五代は薩長土との広い人脈と信用があり、1875年には大久保利通と、下野した木戸、板垣の間をあっせんした大阪会議を成功させてもいる。

以下、五代の言葉。

  • 「自分より地位の低いものが自分と同じような意見なら、必ずその人の意見として採用すること。」

  • 「勝たなあかんで。負けの人生は惨めや。負けたらあかん、他人やない自分にや。」

「地位か名誉か金か、いや、大切なのは目的だ」という五代友厚は、死んでも残る仕事として、大阪経済の近代化という大きな目的に立ち向かった。「死んでも五代の築いた大阪は残る」と語っていた。東の渋沢栄一、西の五代友厚と並び称され、歴史に名を刻んでいる。

後に残る仕事をしようとしているか、そして自分に負けずに達成したか、それが問題なのだ。五代友厚の生き方と残した「仕事は命がけや、、」の言葉には、迫力がある。

「命がけ」という言葉は最近はあまり聞かなくなった。この言葉を使った例をランダムにあげてみよう。鈴木修「軽自動車の電動化を命がけでやる」。棚網良平「ショートパットは命がけで打て」。沢田政廣「人間というものはどんな場合でも、自分を見限ったらもうそれでおしまい。命がけになれば、どんなことでもできる」。島岡吉郎「命がけで当れ」。淀川長治黒澤明はどんな場合でも命がけで撮ってるね。あの齢になって。まだ撮ってるから、86でも映画つくるんだね。偉い人だ」。ロッキー青木「ビジネスで成功するのも、冒険で成功するのも、つきることは同じだと思う。それは「夢を持つ」「手段を徹底的に考え抜く「命がけでやる」の3つである」。大川功「新しい産業には、必ず『予兆』が「あるという。その『予兆』をのがさずにとらえ、これを命がけで事業化しようとする人に対して、天は『時流』という恩恵を与え、そして、『使命』という社会的責任を負わせるのだと思う。私の人生は、それに尽きる」。実相寺昭雄「おれたちは空想に命がけなんだからさ、あほなおとなといわれようといいじゃねえか」。白洲正子の「今は命を大切にすることより、酒でも遊びでも恋愛でもよい、命がけで何かを実行してみることだ。そのときはじめて命の尊さと、この世のはかなさを実感するだろう」。

命をかけても命まではとられない。命がけでやることを、ライフワークというとしておこう。

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